茶一郎

冬の光の茶一郎のレビュー・感想・評価

冬の光(1962年製作の映画)
4.1
 ベルイマン初期作『牢獄』に「広島の原爆から始まったこの時代は、悪魔が世界を引きずり回し、人々を操っている」というセリフがありました。『第七の封印』以後、ベルイマン作品に一貫するその「世界の終末観」、「日常になった地獄描写」が特に顕著に、寒々しい冬景色として映画全体を支配しているのが本作『冬の光』です。

 前作『鏡の中にある如く』から始まる、「神の沈黙・不在」を嘆くベルイマンの「神の沈黙三部作」。この三部作は、敬虔なキリスト教司祭であった父に抑圧的な生活を強いられてきたベルイマンの父(イコール神)への反発が現れた「だから俺はオヤジが嫌いなんだ三部作」と言い換えることができると思います。
 そして本作『冬の光』は、ベルイマンのトラウマであるオヤジが主人公の作品であり、まさに物語はそのオヤジの説教から始まります。
 本作の主人公であるトマスは「売れない牧師」、信者のいない教会を回りガラガラの教会で神を説いている牧師です。信者はもちろんのこと、トマス自身も妻を亡くした事から神の存在を疑うようになり、神の沈黙を嘆いています。(もちろんのごとく、ベルイマン作品でダメダメ父兼信仰者を演じるのはグンナール・ビョルンストランド)

 前作『鏡の中にある如く』では間接的にネチネチと、父への批判をしたベルイマンですが、この『冬の光』では亡き妻とトマスが抱えている愛人から直接的に父を批判していき、観客はただトマスが追い込まれていく様子を見続けます。いやはや『冬の光』は非常に辛い「神父はつらいよ」、「神を信じまったモンはつらいよ」型ムービーでした。
 愛人を多く持っていたベルイマン。ある種の表現者として観客の動員を気にするトマス。『野いちご』、『鏡の中にある如く』同様、ベルイマン父のアバターは父とベルイマン自身が融合した奇妙なものになっているようにも思います。そう考えると『冬の光』は自虐的な作品に見えます。

 『牢獄』での原爆、『第七の封印』におけるペスト、それらは『冬の光』において中国の原子爆弾に置き換えられ、世界の終末観を強調していきます。
 この地獄の中で主人公が見るのはタイトルにある「冬の光」です。神の「沈黙」こそ神の受難であり、神の唯一の言葉は、神の「沈黙」である、と。
茶一郎

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