netfilms

ベロニカ・フォスのあこがれのnetfilmsのレビュー・感想・評価

3.8
 ある大雨のガイゼルガスタイクの夜、急ぎ足で歩いていくご婦人の背中に一人の男が近づいてくる。女はドレスを雨で濡らしながら歩いていたが、男はそっと傘を差し出し、2人で薄もやのかかった林を抜け、ゆっくりとバスに乗る。丁重なエスコートに加え、丁寧にも自分から名前を告げた男に対し、女からの返答はない。座りましょうかと穏やかな口調で話しかけるが、その提案にも乗ろうとしない。男の表情はみるみる困惑し、女はその姿に逆上する。この簡単には通じ合わない突然の雨の中の男女の運命的な出会いは、まるで『不安と魂』の老婆とモロッコ人の出会いのように2人のその後の人生を大きく変えていく。けんもほろろな態度に一瞬で忘れ去るはずだった雨の夜の思い出が蒸し返される翌朝の不穏な電話のベルは、ロベルト・クローン(ヒルマー・ターテ)とその妻ヘンリエッテの円満な夫婦生活をもゆっくりと引き裂いていく。嫌な思い出の後にしこたまビールを呑み、泥酔した男は妻に電話を取らせ、自分は呑気にも思いついた詩をノートに書き留める。満足した男は算段を整えて、昨日の女の元へ向かう。

陰影を意識したライティング、蝋燭による間接照明、宝石や硝子ケースの鈍い光などが印象的なモノクロ映像は、いよいよ80年代を迎えたファスビンダーのルックと逆行するかのように新鮮に映る。今作はファスビンダーにとって、1974年の『エフィ・ブリースト』以来のモノクロ作品である。当然ながらここにファスビンダー特有の赤・青・黄色のドギツイ小物や装飾品は一切出て来ない。戦後復興のシンボルとして登場した数々の道具立てを封印し、あえて光と影のコントラストを強調した映像世界は、そのまんま大女優の栄光と挫折の物語を投影していると言っても差し支えない。主人公のヴェロニカ・フォスは戦前UFA社のスターとして活躍したSibylle Schmitz (ジビレ・シュミッツ)という実在のモデルがおり、特に第二次世界大戦以前に活躍した大スターとして知られながら、国有化から敗戦国に陥ることになるドイツの光と影を背負った女優として描写される。まるで『サンセット大通り』を再現するような悲劇的な退廃が繰り返されるのである。彼女の栄光と挫折の歴史をヴェロニカ・フォスはそのまんま背負い、女優としてのプライドや虚栄心から自らのイメージに抗えずに、徐々に現実逃避して精神の均衡を失ってしまう。その精神の崩壊に際し、「モルヒネ」という劇薬が彼女の死を早めることになる。

中盤以降、ふいに登場する精神病院の空間描写に圧倒される。ここでは初期の『出稼ぎ野郎』に立ち返ったかのように、白昼夢のような吸い込まれるような一面白の印象的な漂白された白の空間が登場する。不安も多幸感も同時に呑み込んでしまう圧倒的な白の世界は、彼女のプライバシーを侵害しない代わりに、あっという間に女優としての栄光の副産物である金銭的な蓄えを奪い去る。実際にジビレ・シュミッツは第二次世界大戦真っ只中の51年に原因不明の神経痛を発症し、痛み止めとして劇薬であるモルヒネを常用することとなる。彼女は当時の時価の10倍の値段を支払うことで、女優としての栄光に傷がつかないよう医師に口止めするが、その秘密を嗅ぎ回る男として、雨の夜に傘を差し出したロベルト・クローンという男が立ちはだかる。互いの弱みや秘密を握り合った者同士の集団生活というモチーフは、明らかにファスビンダーの初期のコミューンのような共同生活を風刺しているといっても過言ではない。精神病院でずっと暮らすギュンター・カウフマン演じる黒人の男は、かつてファスビンダーの同性愛のパートナーだったエル・ヘディ・ベン・サレムを想起させる。白人社会への黒人の突然の介在こそは、戦後ドイツ復興の一端を担ったアメリカの影を暗喩的に提示している。ヴェロニカ・フォスを救おうとした男にもたらされた衆人環視の悲劇、そしてヴェロニカ・フォスの栄光と挫折を第二次世界大戦前から見つめてきた脚本家の目を通して、ドイツが戦後復興を通して決して照らすことのなかった暗部を炙り出している。

車で一夜を明かした男の前にふいに現れる両手に牛乳瓶を抱えた精神科医助手の女。親切にもロベルト・クローンに精神病棟の場所を教える親切な老夫婦の現在と未来は、メロドラマの中に起こる静かな波紋として登場する。老夫婦の背景には第二次世界大戦中の収容所での悪夢があり、過去の痛みに耐え切れずに麻薬にすがる。『マリア・ブラウンの結婚』のラストのW杯サッカーを伝えるテレビ中継のように、ここではラジオから皮肉にも復活祭のニュースとあまりにも牧歌的なカントリー音楽が聞こえて来る。ファスビンダーは今作で遂に世界三大映画祭であるベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞し、名実ともに戦後ドイツを代表する監督となった。『マリア・ブラウンの結婚』、『ローラ』と並ぶ西ドイツ三部作の3本目として、早熟の天才ファスビンダーはこれから国際マーケットでの成功を勝ち得るかに見えたが、この数ヶ月後に麻薬の過剰摂取により、37歳の若さで天国へと旅立つのである。
netfilms

netfilms