カラン

マリアのカランのレビュー・感想・評価

マリア(1975年製作の映画)
5.0
よく分からないのだが、自分のラックに背表紙が見えて、ふと手にとった。なぜか初めての気がしていた。観てみると、以前にたしかに観ていた。それで今、こう書いていてみて、どっちだか分からなくなった。

ぞっとするのは、8月の次に7月が来て、次にもう一度8月が来ることなのだろうか?





ソクーロフ⑦

馬の輝かしい尻尾のような黄金の亜麻を束ねるマリアの太い指。農場をトラクターで夫のように疾駆するマリア。家族で水面を戯れる川辺の葦。こうした村の女の肖像に1人の少年のほとんどフラッシュバックと位置づけるべきようなショットが並置される。マリアの子は車で死ぬ。マリアはトラクターに乗り続けて子を作ることができない身体になる。農場で生きる女の逞しさに、不吉なものが取り憑いていたのを、撮影者ないし監督は感じていたというのか?光の少年のショットの反復がフラッシュバックであるならば、そういうことになるのではないか。

野の花をクロースアップするのと同じく、他人の眼差しを捉えるのに衒いも気後れもなく、カメラはマリアの娘の目を無遠慮に覗きこむ。人間の欲望は他人の欲望であり、常に既に媒介されていて何が本当なのか、もともとは何だったのか、見れば見るほど見失うことになる私たちとはかけ離れたところに、このカメラは立っている。

ドキュメンタリーを模した自己欺瞞としての映画にはうんざりする。映画はドキュメンタリーではない。ドキュメンタリーも映画ではない。映画が映画でないふりをするのは自己欺瞞である。ソクーロフは最初から映画とドキュメンタリーをやっており、その選択は方法の問題のようだ。

本作は『マリア・ヴォイノワの夏』としてテレビ局向けに製作されたもののようだ。『孤独な声』(1978)は検閲の問題で受理されず、ソクーロフはこの『マリア・ヴォイノワの夏』を代わりに提出して大学の卒業課題としたようだ。その後、1975の初撮影から9年経過して、マリアの村を再訪した時の模様が第2部として追加され、現在の39分のヴァージョンとなったようだ。

パンドラのDVDは優秀である。『孤独な声』と同時期であることを考慮すると、美麗であると思う。『孤独な声』のフィルムが特殊なだけなのかもしれないが。
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