昼行灯

踏みはずした春の昼行灯のレビュー・感想・評価

踏みはずした春(1958年製作の映画)
3.5
他者性がテーマとして大きいのではないかと思った。
坂道の上から主人公と小林旭のやり取りを覗き込んだり、2人の喧嘩を横目で見ながら通り過ぎたりする市井の人々や、職場でBBSからの電話をとる主人公の前を横切る同僚など、物語の中心人物以外の人物の行動をよくカメラが捉えている。この演出は主人公がBBSとして外部から不良少年小林旭をケアしようとするという役割の他者性を意識させている。主人公がいくら小林旭演じる少年と仲良くなろうと、二人の間にはケアする/ケアされるという構造が築かれており、対等な関係にはなれない。また、そもそもBBSは不良少年を好意からケアし、更生させるという恣意性を孕んでおり、このことが根本的に主人公が他者でしかありえない原因であろう。
物語の結末において、小林旭とその彼女である浅丘ルリ子が肩を寄せあって歩く姿が映され、そのあとに主人公がその場に座り込み、靴紐をなおし、顔をあげるまでの様子が長回しで撮られている。座り込む前に「BBSは関係できないんだ」というような台詞をかけられた後、座り込んでしまった主人公は、顔をあげる頃には晴れやかな笑顔を見せている。主人公は自分の運命を受け入れたのである。この小林旭との経験から、主人公自身も成長させられたのだといえよう。

障子に埋め込まれた窓がフレーム内フレームとして機能していたのが面白かった。その窓から顔を出す主人公の弟妹もまた主人公の他者。不良少年とその彼女の関係の外側にBBSの関係があり、さらにその外側に主人公の家庭という関係がある。そういった作中におけるメタ構造を把握させる秀逸なショットだといえる。
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