カラン

音のない世界でのカランのレビュー・感想・評価

音のない世界で(1992年製作の映画)
5.0
耳が聴こえない人たちのドキュメンタリー。

☆手話は原始言語か?

耳が聴こえない人たちのコミュニケーションが手話であるのは当然だが、その手話も多様で、外国語があるように、フランスの手話やアメリカの手話があるらしい。

未開の部族の言語は、語彙数も少なく文法構造が簡素で、英語や日本語のように複雑で多様な表現はできないと思い込んでいる人は多いだろう。同じように、手話は芸術や哲学や科学の高度な部分を表現できないだろう、と。

本作はそれが間違いであることを証明する。

①手話のオケ

冒頭の、手話の三重奏は3人の聾者が譜面の前で手話で演奏しているので三重奏と言ったが、たぶん目を瞑ったら室内管弦楽団で8人か10人くらいで弾いているのかと錯覚するほどだ。スクリーンを介して目を瞑ったら何も見えないじゃないかって?まあ、確かに。でも、そういういわく説明し難いことを表現できるってこと。子供たちは合唱してたよね。耳聴こえない子たちだよね。

②映画の話の1人目

映画が好きだという話を2人していた。1人目は吹き替えの映画を観たのか、口パクならば自分もできるからと、近所の有名監督のところに行って、役者をやらせて欲しいと頼んだらしい。彼は、耳が聴こえない人は目が良いんだ、と言っていた。耳が聴こえるって映画を観るアドバンテージにならないんだね。

③映画の話の2人目

もう1人は、耳が聴こえない人は貧しい人が多く、聾学校で映画を観に行ける人は少なかったらしい。で、その彼がこんな映画を観たと話すと、皆んなが寄って来るので説明してあげてたらしい。このドキュメンタリーはセリフがほとんどない。しかし字幕は沢山。手話は分からないが、字幕が手話に追いついていないことは分かった。彼の映画の話を聞きたがったのは、きっと聾学校の仲間たちが映画を観に行けなかったからではなく、単にとっても楽しい「レビュー」だったからなんだろうね。

④家族、友達、夫婦、、、皆んな聾

家族も、皆んな聾。親戚も。皆んな手話。結婚の相手も聾。生まれくる子供も聾。皆んな手話でコミュニケーションを取る。「親戚の子供が1人だけ、健聴者でさ、かわいそうだよね。」聾者は健聴者がかわいそうだと思っているのである。右が8割、左はゼロの聾者も、健聴者と話すと落ち着かないらしい。聾者と話す方がいいと。

☆ドキュメンタリー

ジャケットの少年は身体も小さく聾学校でも年少で、先生に厳しく怒られていた。声を出せるようだが、出したがらないように見えた。その少年が、光をいっぱいに取り込んだきらきらの草原で、手話が上手ではないという母と戯れている。ふと少年がカメラの方に立ち上がり、もふもふの集音マイクをつかみ、いたずらを始める。背後の母親は困惑の表情で優しく「やめなさい」と。少年は背後にいる母の《声》が聴こえたのか?マイクを離してカメラに接近し、のぞき込む。

黄金の光に包まれた草原の聾の息子と母という、厳しい現実にそぐわないロマンティックでその分だけウソくさい、およそ聾者のドキュメンタリーにふさわしくない場で、カメラは現場にいて、聾者の世界と触れ合っているということを、私のスクリーンに向かって媒介する。ニコラ・フィリベールのドキュメンタリーは「フェイク」感や「やらせ」の絶頂で、コミュニカティブに折り返し、真実を伝える。こんな風に、聾の世界がひねくれた私の心にも、飛び込んで来るのであった。


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