白眉ちゃん

恋する人魚たちの白眉ちゃんのレビュー・感想・評価

恋する人魚たち(1990年製作の映画)
4.0


 前半こそ、ユダヤ系でありながらカトリックの修道女に憧れるシャーロットの多感な恋模様をただ楽しむに尽きるのだが、この映画の時代設定が1963年であることの意味が示されるとただのコメディドラマ以上の含意が露わになってくる。劇中でも伝えられるとおり、63年11月22日にアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディがパレード中に射撃され、死亡する。ケネディ大統領は、冷戦時の米ソ間の緊張緩和を主導し、ニューフロンティア政策では経済や社会保障、教育に宇宙開発などの改善・推進に着手した人物である。アメリカ国民の多くにとって輝かしい未来へと先導してくれる存在に思えたことだろう。その喪失は計り知れず、この映画の中でも大人たちが人目も憚らず、街角で涙する姿が印象的である。シャーロットもそんな光景を目の当たりにし、「まるでこの世界から大人がいなくなったみたい。神様、どうしてこんな仕打ちを」と嘆く。世の中がこんな深い悲しみに包まれいるというのに、恋愛に現を抜かす自分を罪深く感じてしまうシャーロット。母親のケイトに相談することもできず、どこに居るかもわからない父親を探しに家を飛び出していく。大統領の死と父の喪失の状況を相関させて父性を求めるシャーロットは、絵に描いたような理想的なアメリカの中流家庭に迷い込む。ここでの自分の家庭環境に関して嘘を並べるシャーロットの痛ましさ、理想的なアメリカならびに理想的なアメリカの家庭になることのできない自分たちの悲しみが画面に漂う。

 陸での人間の生活に憧れた人魚から連想させて、理想に打ち破れたアメリカを描き出す物語である。ここで考えたいのは、恋愛に奔放なケイトが関係性を築いていくのが冴えない中年男のルーであることである。靴屋の主人でもあるこの平凡な男が田舎でとりわけ人目を引くケイトの心を掴んでいくのは、決して理想的ではないものの彼が典型的なアメリカ国民だからだろう。そのことは彼の夢が野球の殿堂入り選手のミットに触ることであることからも窺える。ハリウッド映画において”野球”がアメリカの精神を体現することがしばしばある。野球を題材とした映画はもちろんのことだが、例えばクリストファー・ノーランの『インターステラー』('14)ではスペースコロニー内部で野球をしている人々の姿が映る。野球文化を見せることで、地球から離れた地でもアメリカ合衆国が息づいていることが印象付けられる。最適な例は、ミロス・フォアマンの『カッコーの巣の上で』('75)になるだろうか。管理主義的な精神病棟の婦長に主人公のマクマーフィーは痺れを切らし、退屈なルーティンはやめてテレビでワールドシリーズを観戦しようと提案する。しかし、その提案さえも棄却されたマクマーフィーは真っ暗なテレビ画面に野球実況をアテレコし始める。最初は困惑していた精神病患者たちも次第に「見えない野球」に熱狂し、画面の前に集まり喝采を挙げる。抑圧される環境下でも自由や自分を失わせてはならないというこの映画のテーマ・アメリカの精神性が野球を介して訴えられるのだ。話を戻すと、野球好きのルーにはそういった”ありのままのアメリカ人”の意味が付与されていると言える。だからこそ何度も恋愛の理想に敗れて、その度に引っ越しを繰り返したケイトが口では文句を言いながらもこの善良な男から離れられず、実はお似合いの二人なのかもしれない。

 シャーロットの持つ父親らしき人物が写った足元だけの写真。ラストでは似た靴を履いたルーの足元をカメラは映し、ティルト・アップして喪失していた上半身(父性)を復元する。ケイトは引っ越しをやめ、醜聞の流れる町で生きていくことを決める。理想に敗れながらも、ここで生きていく選択をした人々を優しく見守りながら映画は終わっていく。90年のこのコメディドラマ映画が63年を引用してまでシリアスにならざるを得なかった理由にはまだ考える余地があるが、あの喪失の日に寄り添い、屈折を抱えた家族をぎゅっと温もりで包んでくれるこの映画が実に愛おしい。大好きな映画だ。
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