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エル・スールのbluetokyoのレビュー・感想・評価

エル・スール(1982年製作の映画)
4.0
これって、半分ぐらい、未完成だったのか。終わり方はいいように思うが、全体的に薄い感じがしたのは、そのためかな。あと、語り手は、主人公のエストレリャなんだけど、いつの時点なのか、映画よりも後ではあるに違いないが、不明である。南(エル・スール)へ、エストレリャが向かう直前、というところで終わっている。タイトルにもなっているエル・スールは、南国風の絵のような写真でしかわからない。
ただ、語り手であるエストレリャが、南へ向かうという時点から、あとであることは確実であり、とすると、語り手は、エル・スールを知っているわけである。

エストレリャの初聖体式に、エル・スールからやって来たミラグロスが、明るく温かみのあるおばはんであることから、そんな感じの土地柄であることが想像できる。その反面、いま住んでいるところは、冷涼で荒涼としていて、母親、さらにエストレリャも病気になってしまうくらい、沈鬱で暗い感じの土地なわけである。

父親のアグスティンは、明るいエル・スールから訳ありで追われ、暗いこの地に流れ着き鬱屈した人生を送っている。
途中から、昔、別れた女性に再び惹かれだして、手紙を書いたり、彼女の主演した映画を見たりする。そしてついには、会いに行こうとして、家を出るが、やっぱり行けなくて途中で引き返したりする。

では、その引き金になったのはなんだったのだろう。実際はわからないのだが、語り手がエストレリャなので、初聖体式ではないか、ということになる。

その後、エストレリャが15歳のとき、突然、アグスティンが、学校の昼休みに、ランチを一緒に食べないかと誘ってくる。仲直りのためだ、とも言う。とくに、ケンカしているわけでもないが。
エストレリャは、むかし、アグスティンが、もと恋人の主演する映画を見入っていた、それを知っているよ、みたいなことを言うと、アグスティンは、えらく動揺して、洗面所に顔を洗いに行ってしまう。さらに、午後の授業をさぼって、もう少し、付き合ってくれと、エストレリャに言うのだった。

そのあと、アグスティンは自殺するのだが、エストレリャは、遺品の中に、電話を掛けた際の領収書を見付ける。
これはもう、アグスティンが、もと恋人に電話を掛けたに違いないのだ。さらに、自殺するぐらいだから、いい返事ではなかったのだろう。

映画は、事実上はここまでである。
では、もう一度、エストレリャは、いつの時点から、振り返っているのだろうということを考えてみる。エル・スールを知っていることはわかった。
もう一つ、父親が、もとの恋人と再会することを望んで、果たせなかった、ということから、エストレリャ自身のそういうことと関わっているのでは、と想像できる。

おそらく、エストレリャが結婚するとき、あるいは、家庭をもって、さらには、彼女の娘が初聖体式を迎えるとき、ではないだろうか。そのとき、娘に語って聞かせた父親のこと、それが、映画になっているのでは、と思えてくる。

エル・スールを具体的に描かなかったことにより、それは、誰もが希求するものとしての、普遍性を持ったのだろう。そのことが偶然であるとしたら、ビクトル・エリセ監督が映画の神様に愛されていたということかな。
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