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チンプイ エリさま活動大写真の0000のレビュー・感想・評価

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『チンプイ』は1985年から連載が始まった漫画で「藤子F不二雄が最後に生み出したキャラクター」みたいな紹介がよくされる。実際『ドラえもん』『大長編ドラえもん』の連載を続けていたのを別にすれば1991年に青年誌ビッグコミックで連載された『未来の想い出』と1995年の最後のSF短編『異人アンドロ氏』だけがこれ以後の作品なので児童向けキャラクター漫画としては最後ということになる。連載は「藤子不二雄ランド」という全集形式の単行本刊行シリーズの巻末おまけ描き下ろしとして。後に単独でまとめられた単行本になりアニメにもなる。連載よりも単行本化とアニメ化を念頭に置いてそこを重視して大切に作ってる感じがあって、それはおそらく『ドラえもん』がそういうふうに児童に浸透していき育っていった経験を踏まえてる。『ドラえもん』は単行本6巻最終話「さようならドラえもん」で一応の最終回を迎え、7巻巻頭「帰ってきたドラえもん」以降、ただの児童向けドタバタギャグを超えてもうちょっと深い、幼年期/少年期へのノスタルジアと憧憬を含ませた文学的なライフワークという感じがだんだんと強くなっていく(このへんの変化には前年『新オバQ』最終回と『劇画オバQ』を描いた経験が響いてるかも……)のだけど、『ドラえもん』の主人公は男の子のび太であり、ドラえもんも男の子の友達(のロボット)で、周囲の人物も男友達のジャイアンスネ夫がいて、しずかちゃんは男の子の主人公にとっての女の子という存在の象徴のように配置される。別にそれで女の子の読者/視聴者が楽しめないものではないけれど、『チンプイ』というのは、明らかに後期『ドラえもん』の女の子版を目指して作られた作品だ。つまり女の子が主人公の児童漫画/少年(少女)期文学の決定版として。
(女の子が主人公の作品は他に『エスパー魔美』があるが、あれは連載誌が『マンガくん』、連載中雑誌名が改題され『少年ビッグコミック』、後に『ヤングサンデー』にまた改題される雑誌に載ってたもので、お色気系の男の子漫画、みたいなものとして、少なくとも元々は作られた作品。)
さて、『ドラえもん』の主人公がのび太であるように『チンプイ』の主人公はエリちゃんである。エリちゃんはのび太と同じように勉強ができないがのび太と違って運動はできる(でもおっちょこちょい)お転婆キャラ。女の子にとっては、おしとやかというのが社会的に良しとされる要素であってお転婆はダメ要素である。なのでエリちゃんは運動ができるのである。よってエリちゃんは地球社会にあっては特にいいとこなしの人物なのであるが、ある日突然厳正な審査の結果マール星という星のルルロフ殿下という王子さまのお妃候補に選ばれる。エリちゃんは内木くん(内木さん)という男の子のことが好きなので、お妃候補になることが迷惑で断り続けるのだが、マール星人のワンダユウさんはエリちゃんを説得するためにチンプイというマール星人の子供をエリちゃんのお側につける、というか居候させる。チンプイ含めマール星人は科学が魔法並みに発展した、念じるだけで何でもできるドラえもん以上の技「科法」を使えるので日常の色々なところでチンプイは助けてくれたりドタバタを起こしたりする。というお話、なのだが、チンプイはまだ子供で友達みたいなもんなのでエリちゃんのことをエリちゃんと呼ぶけどワンダユウさん初めマール星人はエリさまと呼び、エリさまの下手な絵もマール星では大芸術で美術館が行列になり、下手な歌もマール星でリリースすれば大ヒットソングになり、事あるごとにマール星人たちはエリさまの言動に感動し感涙大号泣する始末、エリちゃんという一人の普通の(というか普通にダメな)女の子が、存在ごと全肯定されるマール星というどこか遠い星がある、その星との繋がりがあるエリちゃんの世界、というのがこの『チンプイ』のキモである。もう日常が日常日常した平凡な日常(『ドラえもん』等でもお馴染みのあの日常感)であればあるほど、そのエリさまの全肯定されっぷりに、存在大祝福っぷりに感動してしまう。
『ドラえもん』では「あんなこといいな、できたらいいな」というあの歌が、ひみつ道具と四次元ポケットが、あの物語のキモなのであるが、『チンプイ』の場合は「科法」よりも、「エリさま」と呼ばれるその状況、マール星というその存在がキモ。ひるがえって、エリちゃんの普通さ、お転婆さ、エリちゃんがエリちゃんであることこそがキモ、という構造。したがって『チンプイ』オープニング主題歌「お願い・チンプイ」の場合いちばん重要なフレーズは最後のところの「いいことあるよ!」である。アニメ最終回でもエリちゃんが画面のこちら側に向かって指をさしながらの「いいことあるわよ! チーンプイ!」という台詞で終了する。いいことあるよ、ということ。そういう、人生へのエール。
で、そんな普通の普通のエリちゃんがマール星という存在によって全肯定されていながら、エンディングテーマ曲「シンデレラなんかになりたくない」の歌詞「シンデレラなんかになりたくない、自分で歩いていくわ、シンデレラなんかになりたくない、裸足で歩いていたいから」のように、自分ではその普通な自分自身と生き方を、根本の部分ではそもそも自己全肯定しているという構造もなくてはならない部分で、これがないと卑屈な妄想じみた夢物語というだけになる。エリちゃんはエリさまでなくやっぱりエリちゃんなんだ、と。だから側にいるチンプイだけはマール星人の中でただ一人エリちゃんと呼ぶのだ。
この部分ははっきり言ってこの物語の結論である。だからか、藤子Fはこの物語について「結論は出ている」と言った。
(ちなみに『ドラえもん』も結論は出ている。『ドラえもん』の結論は「さようならドラえもん」と「帰ってきたドラえもん」だ。のび太はドラえもんが安心して未来に帰れるように努力し成長した。それでお話は終わった。それでもドラえもんは帰ってくる。それ以降は結論が出た上での長い長いエピローグであり、おまけである。もっと言えば「少年期の長い長いエピローグであり、おまけ」というのが『ドラえもん』の結論。それこそが「あんなこといいな」という夢であり憧れ、ということ。)

以下少しWikipediaの「未完状態と結末について」をそのまま引用。
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作者の死去により、本作は未完に終わっているので、「エリはルルロフ殿下と結ばれるのか? また内木との関係はどうなるのか?」「ルルロフ殿下の顔を含めた正体」の謎は結局明かされずじまいとなっている。原作第52話『エリさま記憶そう失!?』・アニメ第40回Bパート『お姉さんがやってきた』で、未来のエリが「妃殿下」として現在の地球に里帰りしているが、これが現在に依る姿なのか、パラレルワールドに依る姿なのかは不明である。

アニメ第56回(最終回)Bパート『はじめまして、ルルロフです』では、原作に無いオリジナルの展開であるルルロフ殿下がエリおよび内木と友人になるというラストが採用された。この時にもルルロフ殿下は顔を見せていないため、その正体は謎のままである。なお、『アニメージュ』1991年6月号のチンプイ特集では、「ルルロフ殿下=内木」という説が紹介されている。

元中央公論社社長で藤子不二雄ランド編集長だった嶋中行雄は藤子・F・不二雄大全集に収録されているコメントにて、藤本存命中に嶋中が結末について尋ねると「アニメ(映画)の中で結論じみたことは出している」と回答されたと語っている。同じく、アニメ版の監督を務めた本郷みつるは藤子から直接結末を聞いたものの、見事にその部分の記憶が欠落しており、「自分が考えていた幾多のパターンのひとつであったような気がする」「結末自体は話をきいて納得がいくものであった」と語っている。
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Fの「アニメ(映画)の中で結論じみたことは出している」という発言の「(映画)」というのが残された最大の謎である。『チンプイ』の映画は一本のみ。「映画」って部分が勘違いや記憶違いの可能性も大いにあるが。だってアニメ版最終回のほうがけっこう一応の最終回感出してる。映画のお話は、マール星人たちがエリさまの伝記映画『エリさま物語』の撮影をおっ始め、それに巻き込まれて色々あったとさ、といった程度の話で、普通に面白いけどあくまで通常回のスケールアップであって結論というほどの何かは感じられない。強いて言えば、内木くんがけっこう出番多くてエリちゃんと一緒に冒険する、というところと、映画撮影が中止になりかけてエリさま役のマール星人の子やその家族が映画公開を期待してることを考えるとエリちゃんはほっとけなくて結局映画のために一肌脱ぐ、ということ。自分のことよりも結局義理と人情のお人好しがエリちゃんだということ。
あとWikipediaにも書いてる、未来のエリちゃんが来る回の、未来のエリちゃんがパラレルワールドの人とかってことは普通に考えて、ないと思うので(パラレルワールドとしての未来という考え方は『ドラえもん』とかでも出てくるけど、この話ではその可能性を作中で示唆してるわけじゃないのでもしそうだと作劇がアンフェア)、マール星の妃殿下としてマール星全国民の期待を裏切らないエリさまであることは確かな未来だと思う。
そうなると問題は内木さんへの気持ちとルルロフ殿下からの気持ちというのをどうするのか、ということで、パーマンのコピーロボットよろしく二重生活というのがあり得る展開だけど、「結婚」って問題だけに愛は一本に絞らなければならない。アニメ版最終回が「ルルロフ殿下がこっそり地球に来て内木くんと一時的に入れ替わってみる」って話なのだけど、その感じで、宇宙好きの内木くんがマール星の王として暮らしルルロフ殿下は自由な生活を求め地球で……、みたいなオチもありだけどそれだと内木くんとルルロフ殿下というキャラを駒のように都合よく扱う感じになっちゃう。
やっぱり決定的な結論は出すべきじゃない。ラブコメはそのほうがいい。曖昧なくらいがいい。だからFも完結させなかったのだと考えたほうがいい。
だが本郷みつるも結末はあると、結末を聞いたと(その記憶を信じるならば)言っている。いちばんシンプルなのを推測すると、エリちゃんは12歳小6という設定でこれはのび太とかと一緒で作中で成長しないので、この状態のまま最終回的状況に持って行くと考えると、何かマール星の王家だかの存続が危ぶまれるような、王妃になる決断をしないといけない事態になって、結婚はおいといてとりあえずはマール星に旅立つというエンド。王妃として国民の期待に答えながらコピーロボット的な何かやどこでもドア的なシステムの科法によって二重生活を送るとかでもいいし。でもまだ12歳なので本当の結婚とかじゃない。内木さんのことは好きなまま一応は王妃。あくまで国民の王妃。王妃だけど12歳だからまだセーフ。っていうお茶の濁し方。
ルルロフ殿下という人は漫画でもアニメでも最後までシルエットや後ろ姿だけで表現され、顔が見えない、つまりはキャラクターとして描かれないので、エリちゃんが妃殿下になったとしても恋愛としてルルロフ殿下を選ぶという結末はないだろうというのは、まあ明白っちゃ明白である。「映画で結論は出てる」というFの発言は映画でも結局出そうで出ないまま終わったルルロフ殿下の顔のことも指しているのかもしれない。
加えて、テレビアニメエンディングでの「シンデレラなんかになりたくない、自分で歩いていくわ」という歌詞が出るシーンと同じ、夕日のさす公園(学校?)の鉄棒の前という場所で、この映画のエリちゃんは『エリさま物語』撮影ピンチを救うことを(怪我をしたエリちゃん役少女のピンチヒッターとして自分が出演する)決心する。エリちゃん自らの意思でマール星人の期待に応える、それは「シンデレラ」とは違う、ということ。これも結論といえるかもしれない。ここまでくると深読みか。

と、こういうこと考えれる深みがあるというのがもう『チンプイ』が女の子漫画として、女の子版『ドラえもん』として成功してる証拠。『ドラえもん』以外で今後再アニメ化するなら絶対『チンプイ』! いいことあるよ!

(関係ないけど、『チンプイ』には藤子Fの作風に珍しく完全にスネ夫のセルフパロディの名前と見た目のキャラのスネ美という金持ちの子が出てくるのだけど、この子がスネ夫のキャラとちょっと違って、エリちゃんにいつも自慢とかしてくるのは実はエリちゃんのことが好きなのでは?感があっていい。あとガキ大将ポジションの男の子キャラの大江山くんという子が出てくるのだが、こいつは完全にいけずするのはエリちゃんが好きだからってことになってて、つまりエリちゃんは全員に好かれている。チンプイも自分の意思で居候し続けてるのはエリちゃんが好きだから。みんなに好かれるエリちゃんはやっぱり偉大……。王妃の器。)
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