netfilms

パレルモ・シューティングのnetfilmsのレビュー・感想・評価

パレルモ・シューティング(2008年製作の映画)
3.8
 目覚めた彼はカーテンのない窓越しに、朝日が昇るのを仁王立ちでずっと眺めていた。朝のスイミング・プール、水が嫌いなフィン(カンピーノ)は25mプールに飛び込もうとするが勇気が出ない。彼のアート・オフィスではたくさんのアシスタントたちが働いている。フィンはアート写真からモード写真まで手がける世界的写真家で、彼の写真はデジタル処理を駆使し、現実を組み替えることでまったく新しい世界を作り出すことに定評があった。彼はアシスタントに「もっと時間を大切にしたい」とその日の気候をフレームの中に組み込ませようとする。活動拠点のデュッセルドルフでは、常に人に注目される生活で心休まる暇がなかった。どこへ行くにも携帯電話が手放せず、イヤホンから聴こえる音楽だけが唯一心を落ち着かせる手段だった。ほとんど眠ることができない彼は、いつも“死”にまつわる短い夢の始まりで目を覚ます。洞窟の中で、ライトに照らされる屍の群れ。男は命綱なしで時の回廊へと落ちて行く。男はいつも悪夢のようなイメージで目が覚める。『都会のアリス』ではフィリップもアリスもとにかくよく眠り、眠りから覚める場面が物語の起点になったが、今作でも眠ることが死に近づくと考える神経症的なフィンには安眠の地などない。車の事故であやうく死にかけたフィンは日常の地点からの脱出を試みる。かくしてデュッセルドルフからパレルモへ。身重のミラ・ジョヴォヴィッチを伴いながら2人の旅は始まった。

 ドイツの大都市から風光明媚なシチリアの小都市へ。フィンは尽きせぬ「死」のイメージに囚われ続けている。『ベルリン・天使の詩』が守護天使が見つめる地上の世界の物語だとするならば、今作では地位も名声も手にした地上の男の首を天から死神の矢が狙うのだ。男はただただ死の恐怖に怯え、生まれ来るミラ・ジョヴォヴィッチの赤子の生のイメージで死神と対峙するが、そう簡単に死神の心を折ることなど出来はしない。そんなある日、男は運命的にある女性に出会う。街の美術館で巨大な壁画『死の勝利』の修復を行うフラヴィア(ジョアンナ・メッゾジョルノ)はフィンの話を聞き、他人事とは思えないその逸話に震えるのだ。なぜなら彼女が修復する壁画そのものに描かれているのは、首の急所を矢で一突きされる者たちの絵に他ならないからだった。遂に対峙することになった死神(デニス・ホッパー)こそは時間を司る神様だ。「デジタルは実在を何ら保証しない」という死神の言葉は、少なくとも絶え間ない現実の瞬間を切り取った1枚の写真をあれこれいじり倒すフィンにとっては最も破壊力のある言葉に違いない。今日行われるデジタル処理という概念は「オリジナル」と「フェイク」との境界線をフラットにする。ここでは『エンド・オブ・バイオレンス』よりも幾分示唆的であるが、ある種の確証を持って死神はフィンに語り掛けるのだ。それはデュッセルドルフ・パートが35mmで撮られ、パレルモ・パートが16mmで撮られていることからも明らかだろう。

 抗うことの出来ない時間の流れに登場人物たちが抵抗を試みる手段が「移動」だったとするならば、そのひずみにこそヴェンダース的な「物語」が初めて誕生すると考えて良い。『アメリカの友人』で物語を動かすあまりにも重要な役割を担ったデニス・ホッパーはヴェンダースとの初対面時、心底疲れ切っていた。コッポラの『地獄の黙示録』で心身ともに疲れ切っていた彼をその焦燥から救い出したのは、『アメリカの友人』の撮影だった。その彼が今作で死を恐れる主人公に対し、一瞬は永遠だと力強く解いてみせるのだ。既に前立腺癌だったデニス・ホッパーの声を絞り出すような演技は今もなお頭を離れない。死神パートのビジュアルはヴェンダースが物語る作家ではなく、テクスチャーの作家であるということを改めて我々に印象付ける。
netfilms

netfilms