YasujiOshiba

蜘蛛の瞳/修羅の狼 蜘蛛の瞳のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

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U次。24-62。『蛇の道』の続編という。なるほどそうかもしれない。でもその関係性は、続編というよりは、ベルトルッチの『暗殺のオペラ』(Strategia del ragno, 1970)と『暗殺の森』(Il conformista, 1970)の関係のようだ。

違う話なのだけど繋がっていて、繋がっている様で違っており、それでも同じテーマを見つめているというもの。ベルトルッチの場合は前者がボルヘス、後者はモラヴィアが原作。黒沢の2作と同様に、同じ年に連続して撮影されたもの。

ただし、黒沢の場合は、『Cure』という作品があることが大きく違う。それでも『蛇の道』から『蜘蛛の瞳』への連続性は、時代的にはファシズム時代を描いた『暗殺の森』あるいは「体制順応主義者(Il conformista)」の物語から、レジスタンスの英雄と裏切りを描く『暗殺のオペラ』あるいは「蜘蛛の戦略」(Strategia del ragno )への連続性と、遠いながらも共鳴する。

どちらの関係も、少なくともぼくにとっては、時代に流され、流されるからこそ復讐と報復の連鎖にも巻き込まれてしまう悲劇にして喜劇。けれども、それはあとから考えるものであって、見ているときはひたすら画面の力と哀川翔の佇まいに引き込まれ、復讐劇なのに復讐のきっかけとなる殺人の空虚さと、その後に重ねられるある種の報復殺人の空虚さに吸い込まれそうになる。

なにしろ寺島進のヤクザっぽさと哀れっぽさは、殺されて埋められたはずなのに、ほかの殺人のなかでも反復されてゆく。機械的な殺人は、どこかに殺しの理由と殺される理由があるはずなのだけれど、それがまるで幽霊のように空虚なのだ。

そもそも、あらゆる殺人の理由なんて空虚なものなのかもしれない。白い幽霊のような殺された娘の影は、ただの白いシーツであり、なかみは丸太ん棒なのだ。それはちょど、土に帰るはずの肉体が、なんらかの理由で化石になってしまったものなのかもしれない。

あくまでも石ころなのだけれど、化石と呼ばれる幽霊となって、それを見る者の心のなかで増幅し、怖いものへと変化してゆく。だから血だらけになってハッとさせるのは、その石を投げつけられて、血だらけの顔で振り返る佐倉萌。暗殺の森のような森を走り抜けて、ただその石を投げつけられただけでその顔を真っ赤に染めてしまう。

だから哀川翔がなにか善行を行うかのように銃弾を撃ち込むのは「情けの一撃」(colpo di grazia)にほかならない。もちろんその哀川翔もまた、石ならぬ蘇った過去に襲われる。墓はただの空洞であり、幽霊が丸太ん棒に他ならない。

そんな哀川翔にも、見つめる僕らにも、情けの一撃を打ち込んでくれる者はいない。流れるエンドロールを呆然と見守るように、永遠に続く歴史のロールを見続けてゆくしかない。あの一撃を待ちながら。
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