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ロスト・イン・トランスレーションのTOTOのレビュー・感想・評価

4.6
『T君のぼやき――』

一時期、親しくなって一緒に夜遊びしていた友人に、不動産業をしているT君がいます。
彼は飄々として朴訥で、時々「港区で100平米で家賃100万円の物件が出たんですけどいかがですか?」と言う突拍子もない電話がかかって来る事を除けば至って人畜無害な良い友人でした。
でも考えてみたらもう何年も連絡を取り合っていないなあ。T君、元気にしているかなあ。
そんなT君のバックボーンは変わっていて、学生時代アメリカに留学し、そこでコッポラ家の人々と親しくなり、特に娘のソフィアと、その従兄のニコラス・ケイジと仲良くなったそうです。
まあ、ここまで彼の話を聞いて、僕もそれなりに酸いも甘いも嚙み分けて、生き馬の目を抜く人生を生き抜いてきた自負がありますから、彼の戯言を頭ごなしには否定せず、笑顔で受け流すくらいの度量はある訳です。
君はちょっと飲み過ぎているのかな、なんて――。

さてソフィア・コッポラと言えば、近代映画史に刻まれる最も重要な作品『ゴッドファーザー』シリーズの終焉を、その大根役者ぶりで台無しにしてくれやがった積年の恨みがあるものですから、巷で父親譲りの名監督と噂されても一切聞く耳を持ちませんでした。そんなわきゃねえじゃんと。
しかしある日、T君が「ソフィアはね、一度言い出したら聞かないんですよ」とうんざりした口調でぼやくので、ちょっと気になって「何のこと?」と聞き返しました。
するとT君は、ソフィア・コッポラの初期監督作品である『ロストイントランスレーション』の東京での撮影を手伝った時の話を始めたのです。
その際、T君はソフィアに請われて、主人公であるビル・マーレイのアシスタントを務めました。
それこそ、あれ食べたい、これ食べたい、六本木行きたい、吉原行きたい、眠たい、お酒飲みたい、もう一回吉原行きたい――、と言った我儘に朝から晩まで付き合った日々を回想しながら、「あの人は本当に困り者でした」と苦笑いするT君。
そんな撮影中のある日、ソフィアは日本側が用意したキャスティング――、ビル・マーレイが一人で飲みに行ったバーで、ビルと会話をするバーテンダー役の役者が気に入らず、その前夜にビルとソフィアとT君とで飲んだ時のイメージが頭から離れなかったのか、結局、役者経験など1ミリもないT君にバーテンダー役を押し付けたのです。
それが冒頭のT君のぼやきに繋がるのです。
基本的にNOと言えない典型的な日本人であるT君は、渋々その役を引き受けました。撮影当日は気心の知れたT君相手に、ビル・マーレイもノリノリで芝居したそうです。
そこまで聞くと、単なる誇大妄想の虚言にしては話が出来過ぎていると思い、慌ててTSUTAYAでDVDをレンタルし、帰って早速観ました。
そして驚きました――。
つい先ほどまで目の前で飲んでいたT君が、バーテンダーの格好をして世界の、あの『ゴースト・バスターズ』のビル・マーレイ相手に会話しているのですから――。
まったく世の中、おかしな事があるものです。
ちなみにT君はこの役のオファーを、ハリウッド規定の最低賃金で引き受けました。僅か400万ドルの低予算映画だったので、ソフィアは「本当にごめんなさい」としきりに謝っていたそうです。
T君にしてみれば降って沸いた役者体験だけに、ギャラにはなんの不満もなかったそうなんですが、幸いにして『ロストイントランスレーション』は2004年のアカデミー賞で主要4部門(作品賞、監督賞、主演男優賞、オリジナル脚本賞)にノミネートされ、その結果、脚本賞を受賞し、4400万ドルという破格の興行収入を収めました。
ちなみにハリウッド俳優の出演契約にはインセンティブと言うものがあり、出演料を低く抑える代わりに、興行収入に応じて割り当てを貰えるんだそうです。
かくしてT君のギャラは当初の予定の10倍以上に膨れ上がりました。
「へへ、ソフィアのお陰で新車を買いました。ヘヘ」
そう言ってT君は悪戯に微笑むのでした。

ああ、そうだ。肝心の映画本編の話をしていませんでしたね。
『ロストイントランスレーション』――。
言葉の通じない異国の地で、孤独と虚無感に苛まれる二人が偶然出会い、ほんのひとときだけ心を通わせる、熱愛でも純愛でも不倫愛でもなく、もちろんシンプルな恋愛とも呼べない、不思議なラブストーリーです。
曇り空に包まれる東京の風景の中、スカーレット・ヨハンソンの透明感が際立っています。
終始困ったような、何とも言えないビル・マーレイの表情が印象に残ります。
脚本は素晴らしく、程好く抑制された演出も、文句のつけようがありません。
はっぴいえんどの『風をあつめて』が心地よく耳に残ります。
そしてラストシーン――。
悔しいかな、知る限り最高クラスのラストシーンです。
つまり、ソフィア・コッポラは役者としてはまったくの大根でしたが、監督としては千疋屋のプリンセス・メロン級だと言う事になります。
コッポラ家のプリンセスだけに――。
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