大岸弦

風よ あらしよ 劇場版の大岸弦のレビュー・感想・評価

風よ あらしよ 劇場版(2023年製作の映画)
5.0
風よ あらしよ 劇場版
大阪十三にある映画館「第七芸術劇場」にて鑑賞 2024年3月1日(金)
パンフレット入手、原作本入手

伊藤野枝のドキュメンタリー
1895年(明治28年)1月21日-1923年(大正12年)9月16日)28歳没
旧糸島郡今宿村、今の福岡県福岡市西区今宿 生まれ

序説
関東大震災後の混乱のさなか、ひとりの女性が憲兵に虐殺された。
女性解放運動家の伊藤野枝。貧しい家で育った野枝は、平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」という言葉に感銘を受け、結婚をせず上京。自由を渇望し、「青鞜社」に参加すると、結婚制度や社会道徳に異議を申し立てていく。
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「女は、家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、夫が死んだあとは子に従う」事が正しく美しいとされた大正時代。
男尊女卑の風潮が色濃い世の中に反旗を翻し、喝采した女性たちは社会に異を唱え始めた。
福岡の片田舎で育った伊藤野枝は、貧しい家を支えるための結婚を蹴り上京。
平塚らいてうの言葉に感銘を受け手紙を送ったところ、青鞜社に入ることに。
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青鞜社は当初、詩歌が中心の女流文学集団であったが、やがて伊藤野枝が中心になり婦人解放を唱える闘う集団となっていく。
野枝の文才を見出した第一の夫、辻潤との別れ、生涯のパートナーとなる無政府主義の大杉栄との出会い、
波乱万丈の人生をさらに開花させようとした矢先に関東大震災が起こり、理不尽な暴力が彼女を襲うこととなる。
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登場人物は以下の通り

伊藤野枝(吉高由里子)
1895年(明治28年)1月21日-1923年(大正12年)9月16日)28歳没
大杉栄(永山瑛太)
1885年(明治18年)1月17日-1923年(大正12年9月16日)36歳没
平塚らいてう(松下奈緒)
1886年(明治19年)2月10日-1971年(昭和46年)5月24日)
辻潤(稲垣吾郎)
1884年〈明治17年)10月4日-1944年〈昭和19年〉11月24日)
神近市子(美波)
堀保子(山田真歩)
甘粕正彦(音尾琢真)
渡辺政太郎(石橋蓮司)
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無政府の事実 伊藤野枝
私共は、無政府共産主義の理想が、到底実現する事の出来ないただの空想だと云う非難を何の方面からも聴いて来た。中央政府の手を俟たねねば、どんな自治も、完全に果たされるものではないという迷信に、皆んなが取りつかれている。
殊に、世間の物識りたちよりはずっと聡明な社会主義者の或る人々でさえも、無政府主義の「夢」を嘲笑っている。
しかし私は、それが決して「夢」ではなく、私共の祖先から今日まで持ち伝えて来ている村々の小さな「自治」の中に其の実況を見ることができると信じていい事実を見出した。
所謂「文化」の恩沢を充分に受け取ることの出来ない地方に、私は、権力も、支配も、命令もない。ただ人々の必要とする相互扶助の精神と、真の自由合意による社会生活を見た。
それは、中央政府の監督の下にある「行政」とはまるで別もので、また「行政機関」と云う難しいもののない旨、必要に迫られて起こった相互扶助の組織が、今日まで所謂表向きの「行政」とは別々に存続してきたものに相違ない。
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私は今比処に、私が自分が生まれた村について、直接見聞した事実と、それについて考えたことだけを書いてみようと思う。
見聞の狭い私は、これが日本国中の何処にも偏在する事実だと断言することは出来ない。が、そう信じてもおそらくは間違いではあるまいと云うことは信じている。何故なら、此の事実は、或る一地方のみが持つと云う特異な点を少しも持っていない。万事に不自由勝な生活を営んでいる田舎の人には何の地方の、何んな境遇に置かれている人にも一様に是非必要な、一般的な性質のものだ。そして悉ゆる人間の生活が、是非そう云う風でなくてはならぬと云う私共の大切な理想が、其処に確かりと織込まれている。
私の生まれた村は、福岡市から西に三里、昔、福岡と唐津の城下とをつないだ街道に沿うた村で、父の家のある字は、昔陸路の交通の不便な時代には、一つの港だった。いまはもう昔の繁盛のあとはなどはどこにもない一廃村で、住民も半商半農の貧乏な人間ばかりで、死んだような村だ。
此の字は、俗に「松原」と呼ばれていて戸数はざっと六七十位。だいたい街道にそうて並んでいる。この六七十位の家が六つの小さな、「組合」に分かれている。そして此の六つの「組合」は必要に応じて聯合する。即ち、一つの字は六つの「聯合」である。
しかし、此の「聯合」はふだんは解体している。村人の本当に直接必要なのは、何時も「組合」である。「組合」は細長い町の両側を端から順に十二三軒か十四五軒位ずつに区切って行ったもので、もう余程の昔からの決めのままらしい。これも、聯合とおなじく用のないときには、何時も解体している。型にはまった規約もなければ、役員もいない。組合を形づくる精神は遠い祖先からの「不自由を助け合う」と云う事のみだ。
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組合の何の家も太平無事な時には、組合には何の仕事もない。しかし一軒家に何か起これば、直ぐに組合の仕事がはじまる。
家数が少いのと、ふだん家と家とが接近し合っているのとで、何の家にか異ったことがあれば直ぐに組合中に知れ渡る。知れれば、皆んな直ぐに仕事を半ばにしてでも、其の家に駆けつける。或は駆ける前に一応何か話し合う必要があるとすれば、直ぐ集まって相談する。
相談の場所も、何処かの家の門口や土間に突っ立って済ますこともあれば、誰かの働いている畑の傍ですむこともあり、或は何の家かの屋敷に落つく場合もある。
人が集まりさえすれば、直ぐに相談にかかる。此の相談の場合には、よほどの六かしい事でなくては黙って手を組んでいる者はいない。みんな、自分が知っている事と、考えとを正直に云う人が意見に賛成するにも其の理由をはっきりさせると云う風だ。少し六ヶしい場所に出ては到底満足に口のきけないような人々でも、組合の相談には相当に意見を述べる。其処には他人の「おもわく」をはかって、自分の意見に対して臆病にならればならぬような不安な空気が全くないのである。
事実、組合の中では村長だろうが其の日の日稼ぎの人夫であろうが、何の差別もない。村長だからと云って何の特別な働きも出来ないし、日傭取りだからと云って組合員としての仕事に欠ける処はいない。威張ることもなければ卑下する事もない。年長者や、家柄と云うものも田舎の恨わしで尊敬されるが、感心に組合の仕事の相談の邪魔になるような事はない。

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相談の最後の結論は誰がかけるか?それも皆んなで決める。大抵の相談は具体的な、誰の目にも明かな事実に基く事であって、それに対する皆んなの知識と意見が残りなく其処に提出されれば、結論はひとりでに出来上がる。誰が作り上げるまでもない。誰に暗示されるまでもない。
大抵の事なら直ぐに相談がきまる。しかし、どうかして、意見がマチマチになってどうしても一致しない事がある。
例えば、組合員の何の家族かが、内輪喧嘩をする。其の折り合いをつける為めに組合のものが皆んなで話し合う、と云う場合などは、家族の幾人もの人達に対する幾人もの観方がそれぞれ違っていて、それに対する考え方も複雑で、容易にどれが真に近いかが分からなくなるような事がある。
そんな時には、皆んなは幾晩でも、熱心に集まって話し合う。幾つもの考えを参酌折衷して纏めるにも、出来るだけ、皆んなが正しいと思う標準から離れないように努める。
もし又、此の相談の席上で、皆んなに納得の出来ないような理屈を云ったり、それを押し通そうとしたりするものがあれば、皆んな納得の出来るように問い糺す。そして、何うしても納得ができず、それが正しい道でも方法でもないと分かれば、皆んなは正面から其人間をたしなめる。

或る家に病人が出来る。直ぐに組合中に知れる。皆んなは急いで、其の家に駆けつける。そして医者を呼びに行くとか、近親の家々に知らせにゆくとか、其の家の使い走り、看病の手伝いなど親切に働く。病人が少し悪いとなれば、二三人ずつは代わり合って毎晩徹夜をしてついている。それが一週間続いても十日続いても熱心につとめる。
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人が死んだと云う場合でも、方々への知らせや(これは以前には十里もある処でも出かけていったそうだ)其の他の使いは勿論の事、墓穴を掘ること、棺を担ぐ事、葬式に必要な一切の道具をつくる事、大勢の人の食事の世話、其の他何から何まで組合が処理する。
子供が生まれると云う場合には、組合の女達が集まる。産婦が起こるようになるまで、一切の世話を組合の女達が引きうける。
其の他、何んでも人手が必要だと云う場合には何時でも文句なしに組合で引き受けてくれる。
組合の中の家でも、勿論皆んなから好かれる家ばかりではない。何らかの理由から好く思われていない家が二軒や三軒はある。
けれども、そんな家の手伝いをする場合でも、皆んなお互いに陰口もささやき合えば不幸も云う。しかし手伝っている仕事を其の為に粗末にすると云うような事は決してない。其の家に対して持つ銘々の感情と、組合としてしなければならぬ事とは、ちゃんと別物にする。
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組合の事務、と云うようなものはないのも同然だが、ただ皆んなで金を扱ったと云う場合にその人の出入は、皆んなで綺麗に其の時其の折りにキマリをつける。
組合員は時々懇親会をする。それは大抵何処か一軒の家に集まって午贄の御馳走を食べたり飲んだりする会で、米何合、金幾何ときめて持ち帰る。
一年に一度は、此の会食が二三日或るいは四五日続く風習がある。そんな時の後始末は可なり面倒そうに思われるが実際には割合に故障なく果される。集めた丈けの金で足りなければ皆んなで出し合う。あまれば皆んなその場で使ってしまうか、何かの必要がある迄誰かが預かって置くことになる。
酒飲み連がうんと酒を飲んだ、そして、割合いに酒代がかさんで、予定の金では足りない場合がよくある。
そんな時には飲む者は飲まない者に気の毒だと云うので其の不足分を自分達だけで出そうと云う。しかし、そんな事は決して取りあげられない。飲む者は、御馳走を食べない。飲まない者は盛んに食べる。それでいいじゃないかと云うので結局足りない金はみんなで等分に出す。
-------------- 他家の葬式、病人、出産婚礼、何んでも組合で手伝った場合には大抵の買物は組合の顔で借りて済ます。其処で、何時でも手伝いの後では計算がはじまる。この計算には皆んな組合中の者が集まる。そして一銭の金にも間違いがないように念入りに調べる。それで、いよいよ間違いがないと決まれば、はじめて其の調べを家の人に報告する。それで、組合の仕事は終わったのだ。こうして何があっても其の度びに、事務らしい事は関係者総てが処理する。
たまに、何か連続的にやらねばならぬような仕事があっても、大抵一番最初に相談する際に、順番をきめ置くから、何んの不都合もない。
此の皆んなが組合に対して持つ責任は、決しておしつけられて持つ不承不承のものではない。自分の番が来てすべき事、と決った事を怠っては、大勢の人にすまないと云う良心に従って動いている。だから何の命令も監督も要らない。
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火の番、神社の掃除、修繕、お祭りと云うような、ひとつの字を通じての仕事の相談は、六つの組合が一緒になってする。此の場合にはどの組合からも都合のいい二三人の人を出して相談する。相談がきまれば、組合の人達にその相談の内容をしらせ、自分達だけできまらない事は組合の皆んなの人の意見を聞いて、又集まったりもする。
相談が決って、いよいよ仕事仕事にかかる時には、組合の隔てはすっかり取り除かれる。小さな組合は解体して、聯合が一つの組合になってしまう。聯合の単位は組合ではなく、やはり一軒ずつの家だ。
みんなで代わりあって火の番をしよう、と云う議が持ち上がる。一つ一つの組合でするもつまらないから字全体でやろうと云う相談がきまる。すると直ぐ、各組合の代表達が、大凡そ何時から何時まで位の見当やろうと云う相談がきまる。毎晩何軒ずつが組んで、何回まわるか、北側から先きにするか南側から始めるか、西の端からか、東の端からか、と云うような具体的な事をきめる。若し、北側の西の端から三軒ずつ毎晩三回と云う事にできれば幾日と云う最初の晩に、その三軒の家からは誰かが出て村中の太鼓を叩いたり、拍子木を打ったりして火の番をする。
翌日になると、其の太鼓や拍子木や提灯が次ぎの三軒のどの家かに渡される。そしてだんだんに、順を逐うて予めきめられた通りに間違いなく果される。

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神社の修繕費などは、なかなか急には集まらない。其処で皆んなで相談して貯金する。一つの箱をつくって、字全体の戸主の名前を書いた帳面と一緒に、毎日一戸から三銭とか五銭とか云うきめた金高を入れる為にまわされる。これも、毎日間違いなく隣から隣へとまわっていく。
学校に通うのに道が悪くて子供達は難儀する。母親たちがこぼし合う。すると直ぐに、誰かの発議で、暇を持っている人達が一日か二日がかりで、道を平らにして仕舞う。
ひとつの家でそれをやれば他の家でも又、お互いに誰が通るときまった道でもないのに、彼処の人達にだけ手をかけさしては済まないと云うので、各自に手近かな処を直す。期せずして、みんな道が平らになってしまう。
斯うしてすべての事が実によく運んでいる。大抵のことは組合でする。他との協力が要る場合には組合の形式は撤回されて字全体でひとつになる。
此の組合や家の自治に就いて観てみると、村役場は一体何をしているのだろう?と不思議に思われる程此の自治と行政とは別ものになっている。組合や家の何かの相談には熱心に注意するひとたちも、村会議員が誰であろうと、村会で何か相談されていようと、、大部分の人は全く無関心だ。
役場は、税金のことや、戸籍の事や、徴兵、学校の事などの仕事をしている処、と云うのが大抵の人の役場に対する考え方だ。

村の駐在所や巡査も、組合のお陰で無用に近い観がある。

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人間同士の喧嘩でも、家同志の不和でも、大抵は組合でおさめてしまう。泥棒がつかまっても、それが土地の者である場合は勿論、他所の者でも、成るべく警察には秘密にする。
最近に斯う云う事があった。ある家の夫婦が盗みをした。度々の事なので大凡の見当をつけていた被害者に、のっぴきならぬ証拠をおさえられた。
盗まれた家では此の夫婦を呼びつけて叱責した。盗んだ方も盗まれた方も一つ組合だったので、早速組合の人も駆けつけた。彼方(あっち)でも此方(こっち)でも、此の夫婦には余程前から暗黙の中に警戒されていたので、皆んなから散々油を絞られた。
しかし兎に角、以後決してこんな事はしないからとあやまるので、被害者の主人も許すことになった。組合ではでは再びこんな事があれば組合から仲間外れにすると云う決議を決議をして落着した。
此の事件に対する大抵の人の考えは斯うであった。
『盗みをする云う事はもとよりよくない。しかし、彼らを監獄へやった処でどうなるだろう。彼等にだって子供もあるし、親類もある。そんな人たちの迷惑も考えてやらねばならぬ。彼等も恥を知っていれば、組合の人達の前であやまるだけで、十分恥じる訳だ。そして此の土地で暮らそうと云う気がある以上は、組合から仲間はずれになるような事はもう仕出かさないだろう。そして、みんなは又、彼らにそんな悪い癖があるならば、用心して機会を与えない様にする事だ。それでうまく彼等は救われるだろう』と云うのだった。

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実際彼等は慎んでいるように見える。警戒はされているが、彼等に恥を与えるような露骨な事は決してしない。其処はまた、田舎の人の正直な「おもいやり」がうまくそれを覆っている。
此の話は、字中の者の耳には確かに入っている。が巡査の手には決してはいらないように十分に注意されている。どんなに不断巡査と親しくしても、他人の上に罪が来るような事柄は、決してしゃべらない。若し、そんなおしゃべりをする人間があれば、怱ち村中の人から警戒される。

斯ういう事も、ずっと遠い昔から、他人の不幸を作り出すことばかり狙っているような役人に対して、村の平和を出来るだけ保護しようとする、真の自治的精神から訓練のお陰げだと云っても、間違いではあるまいと私は信じている。

組合の最後の懲罰方法の仲間はずれと云う事は、その土地から逐われる結果に立ち至るのである。
一つの組合から仲間はずれにされたからと云って、他の組合にはいること云うことは、決して出来ない。
組合から仲間はずれにされると云うのは、よくよくの事だ。事の次第は直ぐに其処ら中に知れ渡る。此の最後の制裁を受けたとなればもう誰も相手にしない。結局は土地を離れて何処かへ出かけるより他はない。
が、みんなは此の最後の制裁を非常に重く考えている。だから、余程の許しがたい事がない以上は、それを他人の上に加えようとはしない。私の見聞の範囲の私の村では此の制裁を受けた家の話を聞かない。その位だから、若し此度何々したら、と云う条件で持ち出されるだけでも非常に重大だ。従って効き目は著しい。

実際田舎の生活では、組合に見放されてはどうする事も出来ない。組合の保証がありさえすれば、死にかかった病人を抱えて一文の金もない、或は死人を抱えて一文の金もない、と云う場合でも少しも困ることはない。当座を切り抜けるのは勿論のこと、後の始末まで心配して事情を参酌して始末してくれる。

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組合の助けを借りる事の必要は、殆んど絶対のものだ。殊に、貧乏なものにとっては猶更のことだ、貧乏人は金持ちよりは何んな場合でも遥かに多くの不自由を持っている。その大から小までの悉ゆる不自由が、組合の手で大抵は何んとかなる。

私はこれまで、村の人達の村のつまらない生活に対する執着を、どうしても理解することは出来なかった。一たん決心して村を離れた者も大抵は又帰ってくる。都会に出て一かどの商売人になることを覚えた青年達までが何んにもする事のない村に帰って来て、貧乏な活気のない生活に執着しているのを不思議に思った。
けれども、此の村の組合と云うものに眼を向けた時に、私は初めて解った。村の生活に慣れたものには、他郷の、殊に都会の利己的な冷ややかな生活にはとても堪え得られないのだ。成功の望みはなくとも、貧乏でも、此の組合で助け合っていく暖かい生活のほうが、はるかに彼等には住み心地がいいのであろう。

出典 伊藤野枝集
伊藤野枝著、森まゆみ編、・岩波書店

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