ボギーパパ

ヤジと民主主義 劇場拡大版のボギーパパのレビュー・感想・評価

3.5
劇場2024-4 角川C

お初にお目にかかります山崎裕待監督の
ドキュメンタリー作品
この事件と元首相の「こんな人たちに、、、」発言から私はヤジというものに大いに興味を持った。ヤジとは揶揄でもあり、真っ当な反対意見の表明でもあり、痛いところをつくものでもあり、その効用は様々。

冒頭のマルティン・ニーメラーの詩、、、
ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。

それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。

それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。

さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。

— 丸山眞男訳、「現代における人間と政治」(1961年)[6][7][8]より引用。

うーむ、これは奥深い。
民主主義の根幹はまさに対話にある。コミュニケーションが無くては民主主義自体が成立しない。原告となった男性も女性も届かない声をなんとか届かせようと,心の叫びとしてヤジった気持ちはよくわかる。
一方、そのヤジを聞きたくない人がいてもおかしくはないのも事実。
ここまでは双方とも不快な思いをした、させた両極の論があろう。

さてさて問題は、警察の行動だ!

排除、付き纏いはどうなのだろうか、、、
などと考えるまでもない。こりゃダメだ!
そしてこれに対し、法的根拠を示していない,示せない事が特に問題!
その上、裁判になるとヤバいところは触らず、強気に押せるところだけ押す。こんな暴挙暴論は、やはり看過できない!
この点に関してはしっかり取り扱っておりドキュメンタリー作品としての心意気は十分に感じられた!それだけで観た甲斐があったというもの。
ややエキセントリックな感もしたが、論拠はしっかりしていると見てとれた。

安部一強政治がいかに歪みを生じさせたか、現状を見れば明らか!是正されなければ民主主義の瀕死の状態からの脱却は叶わない。

少しでも理解を深めるためには、こう言った作品、テレビでも新聞でも報道と接することの重要性を改めて認識していかねばならない。ここに気づかせていただいたのはありがたいです。
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