開明獣

ジャン=リュック・ゴダール 反逆の映画作家(シネアスト)の開明獣のレビュー・感想・評価

5.0
「軽蔑」という作品がまず出てくる。ゴダールが、シネマへのレスペクトを散りばめ、一見、人間関係の複雑さを描くという硬い殻でくるんであるが、芯にあったのは、妻であるアンナ・カリーナへの苦く切ない想いであった。だからこそ、同じ境遇にあった原作者のモラヴィアに共感したに違いない。モラヴィアの最初の妻であるこれも偉大な作家であったエルサ・モランテの奔放な男性関係(フェデリコ・フェリーニとも関係をもっていた)に手を焼いたモラヴィアが、男女を逆転させた関係にして痛切に相手への軽蔑と愛憎のない混じった複雑な感情を小説にしたのをゴダールも本作に自分の気持ちとして封じ込めている。単に複雑な人間の感情を描くだけでは飽き足らないところが、ヌーベル・バーグの作家たる面目躍如なのだと思う。そう、ゴダールは常に他のものがやらないことをやってきた。

ゴダールを彩った女性たちの話しが興味深い。全員出てくるわけではないが、当然話としては欠かせない。最初のパートナーであり初期作品のミューズアンナ・カリーナ。ロベール・ブレッソンの「バルタザールどこへ行く」に出演していたノーベル賞作家、フランソワ・モーリアックの孫娘、アンヌ・ヴィアゼムスキーは2人目のパートナーだ。他に、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー作品で名を馳せたハンナ・シグラや、リチャード・リンクレイターのビフォアシリーズで有名なジュリー・デルビーもインタビューに応じて、とても興味深いメッセージを発信してくれている。

映画好きの端くれとしてゴダールくらい観なければと背伸びに背伸びして、「勝手にしやがれ」と「気狂いピエロ」を観たが、映画偏差値の低い開明獣には、全く良いと思えなかった。考察サイトや映画評論家を、コンテンツにたかる寄生虫とみなしてGよりも嫌う開明獣だが、ドゥルーズ・デリダの哲学評論も書いている蓮實重彦ならまだましかと思い、同氏の「ゴダール革命」を読んだが、独善的な思想の押し付けの連続で、全くゴダールを知るのに役に立たなかった。だが、本作は違う。ゴダールを語るには映画に限る。

この作品を観ると、唯一のゴダールというのは、いないということが分かる。その時代、時代で、彼は悩み喜び驚き哀しみ、違うゴダールとなっていった。さりながら、彼の中には一貫して変わらず"映画"を創るという行為だけがあった。

ゴダールと真剣に対峙したいと思うようになったのは、「アワ・ミュージック」を観てから。当時、ダンテの「神曲」を読み返していて、ゴダールがその「神曲」をベースにした作品を撮っていたということで観てみたものだ。フラクタルなイメージのコラージュは、ひたすら恐ろしく、悲しく、そして美しかった。ゴダールの真髄がほんの少しだけ分かったような気がした。言葉で語るなら文学をやればよい。映画というモノに取り憑かれたゴダールは映像にとことん拘った。

ゴダールは歩く図書館並みに博覧強記だが、ゴダールを観るのに教養など不要だ。本人自身がインタビューでそう明言している。彼は常に権威に虐げられる市井の人達と同じ視線を持ち続けている。全く対照的ながら、その意味では、アキ・カウリスマキと同じなのだ。

希望と絶望を同時に内包し共存させ描こうとした映像作家。"ゴダールの作品は、映画監督になりたいものだけが観ればいい"などという世迷言をほざいた映画監督がいたそうだが、それは違う。映画は観るものがいなければ成立しない。それは映画というものに魂を殉じたゴダールが一番良く分かっていることではないだろうか?

ゴダールは、まだ数本しか観ていない。本作を観てもゴダールの作品は分かりはしない。彼の人生の一端を垣間見れるだけだ。

開明獣はゴダールを観る。理解するためではない。ただ映画というものを観るためだけに観る。そんな純粋の気持ちにさせてくれる映像作家は、後にも先にもゴダールだけかもしれない。

"たとえ希望が叶わなくても、我々は希望を持ち続ける" - JLC
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