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『Stuff and Dough(英題)』に投稿された感想・評価

[ルーマニア、生活に潜む犯罪の影] 80点

傑作。2001年に発表されたルーマニア・ニューウェーブの開祖的作品。クリスティ・プイウ初長編作品。1990年代後半に製作された本作品は、所謂"親世代"が監督たち若者世代を"正そう"とした試みによって度々邪魔されることになった。元々は国立映画センターを通して国から資金を得たRoFilmが製作を担当していたのだが、旧共産時代から残り続ける巨大会社というだけあって、プイウの方針に社長が難色を示した。そして、RoFilmは本作品がカンヌ映画祭監督週間に選出された際に上映禁止をチラつかせ、最終的にポストプロダクションの資金を削減するなどして妨害し続けたが、ルーマニア映画界の重鎮であるルチアン・ピンティリエの後援を受けた映画スタジオが出した助け舟によって完成へと漕ぎ着ける。その後も会社側との軋轢は続き、プレミア上映では会社側の代表者が出席せず、配給用のコピーも減らされてレーティングも上げられ、結果本国では1963人しかチケット購入者がいなかったらしい。

1990年代後半から2000年代初頭にかけて、ルーマニアでは多くの人々が民主主義の荒波に飲み込まれていく時代となった。EUが徐々に統合され、ルーマニアの東と南の国境から不穏な空気が漂ってきたことで、政治家たちはより一層西側に引き寄せられていく。重要な経済部門は民営化が続き、経済成長率は当時の東欧では驚異的な伸びを示した。また、1990年代末には消費も加速し、オヴィディウの両親が経営するような小さな生活雑貨店が街のいたるところに出現した。しかし、こうした見かけ上の繁栄とは対照的に、社会のセーフティネットは劇的に悪化していった。"自由"な市場と"民主主義"の後ろに隠れていたのは、その責任をますます個人に転嫁する国家に他ならなかった。民営化は多くの場合、大量の従業員が解雇されることを意味しており、仕事にありつけた一握りの幸運な人々以外は、失業給付金を得て裏社会へと足を踏み入れたり、ホームレスになって街角を彷徨ったりして生活することとなり、元共産主義国家の構成員だった人々の大半は、新たな"階級"、つまり"プレカリアート"の一部となった。

夫婦の営む生活雑貨店に半ギレ状態でオーナーのマルセル・イヴァノフが乗り込んできて、9時になっても惰眠を貪る青年オヴィディウを叩き起こし、以前与えたミッションの確認をする。それは今いるコンスタンツァから14時までにブカレストのある家に荷物を引き渡すこと。中身?医薬品だよ!とマルセルが言うあたり、とても怪しい仕事だが、独立のための資金がほしい(けど働く気はない)彼は特に考えることなく仕事を受ける。開始10分で舞台は整うのだが、マルセルの予測通り優雅な朝食を取りながら、義母(オヴィディウの父方の祖母)を介護する母親から"今晩には料理油とコーラが品切れになるからついでに買ってきてよ"と言われるなど、妙にのほほんとした空気が漂っている。奇妙なのはオヴィディウの父親があまりにも無個性にマルセルに従っていることだろう。逆にマルセル自身の振る舞いは権威主義的な父親像の権化のようなそれであり、彼らを比較することで革命以降の10年間で如何に裏社会との強い繋がりを持つ小金持ちが台頭し、人々の中で国家と親の権威を奪い去ったかが分かる。また、彼の車は1990年代に新しい富裕層の象徴として人気があったが、2000年代にもなると普及しすぎてその権威を失った代物だった。2000年代になってまで乗り回すのは90年代の権威に憧れるワナビーに過ぎず、彼が首からチラ見せしている金のチェーンと共に彼の権威主義的な側面を推し量る指標にもなるらしい。

屋内の会話のような緩い感じは、オヴィディウの友人で運転担当のヴァリとその恋人ベティを含めた三人で車に乗り込んでも続く。車内での会話は他愛のないものだ。音楽について、将来についてなど右から左へと流れていくような日常の欠片に過ぎない。しかし、その編集は奇妙だ。カメラは常に助手席の後ろの席に我々がいるかのように、運転席のヴァリ、助手席のオヴィディウ、隣の席のベティをグルグルと見回しているのだが、長回しを使ったかと思いきや、同じ会話の中でも会話の間をふっ飛ばすかのように編集されていることもある。また、この手のロードムービーに登場する車にしてはやたらと窓がデカく、フレームも細い上に、カメラは天井をギリギリ映さないくらいの高さで左右に振れるので、ずっと車の中にいても妙な開放感すら感じてしまう。そんな感じで気怠い旅を続けるのかと思いきや、後ろを付けてきた真っ赤なSUVの煽り運転に耐えかねて車を停めると、SUVに乗っていた屈強な男たちがオヴィディウたちを襲い始めたのだ。『激突!』のように三人は追われながら旅を続けるが、助手席裏から運転席を見る画面の中には、サイドミラーから後ろを走る赤いSUVもバッチリ見える。わざわざ振り返らずとも前を向いているだけでずっと追われていることが分かるのだが、これが無駄な長回しの節約になってて良い。この赤いSUVとは精神的な駆け引きをする羽目になるのだが、それによって別の赤い車さえ敵に見えて精神をすり減らしていく。

犯罪者となるにはナイーブすぎるように見えるオヴィディウは、マルセルと対等の立場にあると勘違いしていたのかもしれない。赤いSUVに襲われたときも、警察に賄賂を支払ったときも、彼はマルセルが助けてくれると本気で思っていた。それが若気の至りなのかどうかはさて置き、市民生活の奥深くにまで密かに入り込んだ犯罪に足を踏み入れたことを強烈に理解したのは、赤いSUVのその後を知ってからだろう。きれいに喉を切り裂かれて死んでいたSUVの面々もまた、オヴィディウたちのような駒だったに違いない。もう後には戻れない、無自覚なヴァリに対してそれを知ってしまったオヴィディウの表情は暗い。それはまるで青春の終わりのように、無知でいられる時間は呆気なく終わってしまった。プイウは本作品の脚本も担当しているが、製作のきっかけは1998年にプイウの妻の弟が自身の小さな事業を拡大しようとした矢先、交通事故で亡くなったことだという。90年代に多くの若者が直面したこれらの些細だが勇気のいる妥協が、オヴィディウの悲しい決断の中に凝縮されているのだ。