せいか

ヴァチカンのエクソシストのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

ヴァチカンのエクソシスト(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

05/17、Amazonにてサブスクにて視聴。字幕版。
日本公開当時だったか、その前からだったか、主人公のエクソシストがスクーターを乗り回してる様子が面白いものとして国内でめちゃくちゃ話題になっていた作品である。確かに、日本でも法事に向かうお坊さんがスクーターを乗り回してる姿を見かけることがあるけど、ちょっとその掛け合わせが目に楽しい感じはあるわよねと、盛り上がりを横目で見つつ思っていたものだった。

本作は『エクソシストは語る』(ガブリエーレ・アモルト)の回顧録を映画化した内容で、主人公のアモルトは、イコール、著者本人という構造になっている。要は、(信じる信じないはともかくも)半伝記的なものとなっている。ちなみに私は著書のほうは未読である。
舞台設定が1987年であるため、バチカン第2公会議とその後に公的な文書として発布された悪魔祓いに関するもの(※後者は1999年になるが、そこに至るまでの経過に関する話としてという意味で挙げている。「De Exorcismis et Supplicationibus Quibusdam」のこと)に何か言及があるのかとも思いながら観ていたが、少なくとも私が分かる範囲ではそこに食い込むほどの何かがあったわけではなかった。なんなら1990年にアモルトが創設人の一人となる国際エクソシスト協会についての言及も特になし。こちらに関しては作中でも自身のエクソシスト活動の広がりを助ける人がもっといるのではみたいなことも言っていたし、続編とかも目下制作中とかなので、そっちで展開するのかもしれない。
ともかくも、そんななのもあるからか、内容はかなり王道的なエクソシスト映画である。ジャンル「エクソシスト(洋画)」を求めるならご満足いただけるくらいには王道的且つ真面目にそれをやっていた。逆に言えば、別にそれを楽しく観るタイプでない私としては、さよか……さよか……の連続であった。何か作品の深みみたいなのも少なくとも私は観ていて感じることはなかった。というか、そもそも、エクソシズムと信仰みたいなのってむしろそこで頼られてるところの神という存在を中心にした世界観がめちゃくちゃ歪んでるものに見えるので、娯楽作品上で観ていてもなかなか気持ちの悪いものがある。神というものに対して、ナンダァ、テメェ……?みたいな気分になってくるし、大真面目でやってるのだろうエクソシズムにも、ナンダァ……???みたいな気持ちになるというか。この辺、別に仏教の調伏なり加持祈祷的なのとかはそのへんの歪みは宗教観的にも感じにくい構造になってるだろうからうまいもんだよなとも思いもする。

作中、ドデケエヤベエ悪魔としてここではアスモデウスが採用されて登場し、とある一家に憑いたこの悪魔を主人公たちがひたすら祓おうとするという内容になっているのだけれど、その舞台となっているのがスペインの元修道院で、そこでかつてアスモデウスが暴れまわり、何とか抑え込まれてもいたのが、工事が入ったことで復活し……というのはともかく、そこに中世の異端審問を絡めていた点がなかなか私としてはムカついた。いわく、異端審問がもたらした惨劇はそもそもアスモデウスが教会に食い込んで蛇となってそうなるように事態を持っていったからだ!というのである。それくらい恐ろしい大それたことをしたやつなんだよ!という話に持っていくためにしろ、人間がやった都合の悪いことを悪魔のせいにするんじゃないよという感じである。純度100%の人間の罪であり、信仰やら何やらの思惑がもたらした大虐殺だろうがよという気持ちでいっぱいである。部分的にしろ悪魔のせいにしたら何でも赦される(すくなくとも何かしらが軽減される)わけだな、その世界ではという感じである。

あと、主人公とその手伝いをする神父の二人がそれぞれに己の中で重荷となっているものの姿を悪魔によって見させられて苦しめられるというくだりがほぼずっと続くのだけれど、そのどちらもが女性の姿をしているのもなんだかなであった。片方は、教会絡みで淫行されて発狂し、悪魔に憑かれたとして主人公を頼るも、これはエクソシストの仕事ではないと背を向けられた末に目の前で自殺した女性で、もう片方が、愛し合った仲だけれども結婚前に淫行をした上、結婚もすることはなかった女性というわけで、どちらも性欲を交えた背景を持つものとなっている。どちらにしろ別にその女性たち自身に悪の烙印を押しているわけではなく、彼女たちと関わった二人側自身にその己の罪を自覚させてはいるのだけれど、それにしたって結局はイヴが背負わされてきたようなイメージは避けられないものになってるよなあと思うのだった。悪魔を介してこの女性たちの姿となったものがひたすらしつこく二人を阻み続ける画になっているわけだし。
主人公なんかは自分の罪として他にも大戦中に自分はパルチザンとして活動していて、その過程で仲間が多く死んだのに自分は後ろめたさが残る形で生き残ってしまったことを語ってもいるのに、この血みどろの慙愧の念に関しては一切祓魔中に障害として立ち現れないのは何やねんという感じである。パルチザン仲間は男だからですかね?と鼻ほじりたくなってきてしまう。
聖母マリアと思われたイメージが醜く崩れて主人公を悩ませる女性になるとかいうくだりにしろさ……。

男だの女だので言えば、今回、アスモデウスに憑かれることになるアメリカ人一家は一カ月前に父親を亡くした母子家庭であるのもそこを考えていくとやや引っかかるものがある(※一家は遺産となる修道院の修繕のためにはるばるスペインに滞在することになり、今回の事件が発生することになった)。家族構成は、母、娘、息子の三人で、まだ幼い子供である息子はずっとアスモデウスがメインで取り憑き続けているため、まともに人間として振る舞っているほうが作中では短いくらいで、あとは女二人がわちゃわちゃと悪魔によって苦しめられる描写が山とあるわけである。
一家の主人たる父親の不在を神の不在と重ね、どうやらそんな父親が死んでからは精神的な意味で一家離散状態だった家庭と今回の事件、そして苦しむ母と子みたいなのも重ねてる感じがして(彼女たちの信仰もほとんど過去のものとして扱われている)、なんかすごく気持ち悪いな!と、ここに関してもひたすら思っていた。
神父なんだからどうしたって男が立ち向かう構造にもなるわけだし、これも仕方ないっちゃ仕方ないけど比較的悪魔に直接憑かれることは少ない母と娘はほぼ被害者の役回りしかしていなかったり、とにかくものすごーーーーくいろいろなところで男社会的な構造になっていたのがなかなかあれであった(時代背景上仕方ないよというより、あえてやってるよなという感じ)。
スペインの異端審問と絡めてるくだりにしろ、その発端を悪魔に憑かれた神父(悪魔祓いの過程で自らに取り憑かせた上でという擁護ポイントも用意されている)が、異端審問しましょう!と持ちかけ、納得させた相手としてあえてイザベラ王女のほうの名前だけ出してるのとかもかなりその意味でウヘッとなった。一応言っておくと、原文でも確認したが、この点はやはりそういう扱いをしていた。王であるフェルナンドもというか、むしろそっちのほうが異端審問をやりだした原因の比重としては大きいはずなのだけれど、この場面でそちらはそもそも意識の上にも上らせない仕組みにしてるのがすげえので、やはりもろもろ故意の仕組みなのでは?と思ってしまう。


というわけで、なんだかなー、なんだかなーーー!!!と頭の端で思いはするエクソシスト作品でした。

あと、割とキャラクターたちの物事に対する動き方とかも納得しかねるのだけど(重大な局面だろうと放置される取り憑かれ一家など)、まあ、まあええか……。
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