ルサチマ

シャンゼリゼをさかのぼろうのルサチマのレビュー・感想・評価

4.3
シャンゼリゼ通りの歴史を遡り、ギトリ扮する教師の現在まで語るという形式は、『王冠の真珠』で成し遂げた歴史とフィクションをないまぜにした複数人の語りの延長線上にあり、今作では完全に1人の語り手に委託する試みというのは、個人的な(客観性の乏しい)伝承となり得るが、それは恐らく『役者』でギトリの父であるリュシアン・ギトリをギトリの視点で描きながらギトリ自身の肉体で演じる試みに至るまでのプレリュードといえる。普通なら、様々な視点から客観性を担保して語る形式を段階的に身につけていきそうだが、ギトリの場合は1人の視点にするという試みが決してシナリオ執筆の惰性によって選択されているわけではなく、自らに責任を一手に引き受けるための行為のように思われ、1人の個人的な歴史観によって、実際の歴史を1人の妄想の如く立ち上げ、それによって見るものの思考を画面に映る偽の歴史そのものから距離を取らせつつ、見るものの歴史観と照らし合わせる意識へと誘う。故に歴史を再現したシーンでは、国王が死のうがそこでは一切の抒情性は排され、出来事の経過として位置づけられる。そこで描かれるべきはギトリ扮する教師の祖先に当たる国王の孤独でもなければ、周囲との決裂でもなく、フランスの歴史をいとも簡単に要約してつらつらと喜劇的に語ってみせる教師の道化ぷりだとひとまず仮定できる。今作で取り入れられた歴史語りの形式はかなりロジックでもって選択されたものであると思われるが、しかしある意味で個人的な語りの内容と、それを伝える形式の一致が生み出す効果がどこか演劇の領域を超えていかない感覚があるとしたときに、ギトリが『役者』で取り組んだ、父と自身を一人二役で同シークエンス内で演じてみせるというアクロバティックな(最早理論をすっ飛ばした)映画の技法の応用によって、演劇的手法を完全に映画独自の文体の中に落とし込んでいく流れは凄く納得がいくし、ギトリと同時期の映画の文脈と比較した時に生まれる大文字での特異性というのはここに見出せるんじゃないかと思う。
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