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コット、はじまりの夏のしののレビュー・感想・評価

コット、はじまりの夏(2022年製作の映画)
4.3
家庭でも学校でもない第三の居場所が、9歳の子どもにとっていかに大切か。とりわけその二つが、子どもを受容する場として機能していないとしたら……。少女が親戚夫婦の家で過ごすなんてことない生活には、確かに一人の人間としてリスペクトされる安心感がある。そして気づけば我々もその受容の輪の中にいる。途轍もない同期体験だった。

とにかくスタンダードサイズの少女目線で語る映画言語が豊かだ。まず冒頭、孤独感や不安感から安心感へと誘われる過程を「泥に塗れた足や服が丁寧な入浴と着替えによって綺麗になる」ことで示すあたりからヒーリング効果が物凄い。以降、どんどん少女と観客のシンクロ感が増していく。

この冒頭に限らず、全編にわたって水(液体)がコットの受容体験を象徴している。家での夜尿症、学校でひっくり返される飲み物。不安の象徴だったそれらは、「入浴する」「井戸の水を汲む」「飲み物を与える/与えられる」といった、親戚夫婦との生活の主軸となるモチーフへと変化していく。そしていつしか心理的な安心材料になっていくのだ。

生活の映画なので反復描写も豊かだ。バケツを持つカットはコットとアイリンの関係性を示す内容へと変化し、牛舎の掃除はコットとショーンの関係性の変化を示すようになる。少女は寡黙だし、夫婦もそんな彼女と暮らすだけだが、互いに癒され受容しあう関係になっていくのがわかる。そんな生活の中で、少女は死に触れることになるが、そこにも水(親戚夫婦との生)が寄り添っている。そして夫婦からは、秘密を持たずに話し合うことと、沈黙することの価値をそれぞれ教わる。生と死、開示と沈黙。それらを併せ持つ人間存在として、コットは自身と他者を受容するようになる。

しかし振り返ってみれば、この一夏にコットが経験したことは、ジャムを作ったり牛乳を搾ったりする何気ない暮らしの中で、ただただ一人の人間として蔑ろにされず受容されるということに過ぎない。ここに宮崎駿や高畑勲的な「生活」による回復の過程を見出せる(『ハイジ』も出てくるし)。そしてこの当たり前のことが、この年頃の子どもにとっていかに大きな意味をもたらすかを痛感させられるのだ。主人公は終始寡黙だが、明らかに生の実感を取り戻していく。素晴らしい表現力と説得力。自分も、夏休みに祖父母の家という「第三の場所」に行く体験がかけがえのないものだったことを思い出した。

結末は、劇中でも言われる通り「最初からわかっていたこと」なのだが、早くも今年のベストラストシーン賞候補になりそうだ。この後、少女は元の生活に帰還しなければならない。そこではいくらか戦いも強いられるだろう。しかし、この一夏の体験と、世界のどこかに居場所があるという事実は、彼女を一生支えるに足るはずだ。そうであってほしい。

その先が見たいのに、とも思う。しかしこうして、かつて子どもだった大人も、自分ごとのように「一夏の体験」の力を思い出すことになる。子どもには、人には、安全な居場所がないといけない。そんな当然のことを切実に思うようになる。これが映画という同期体験の力でなくて何だろう。宝物のような作品だった。
しの

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