幸ドン

君たちはどう生きるかの幸ドンのレビュー・感想・評価

君たちはどう生きるか(2023年製作の映画)
5.0
『君たちはどう生きるか』真人が向こうの世界で出会うモノが屠畜業、鍛冶屋、産屋であることからも、あの世界は人間がケの世界から秩序のために追放してきた「ケガレ」の世界だと思うんだよね。屠畜をやってたキリコさんが部落出身者だと考えると、彼女もこちら側から来た存在であるにも関わらず、真人との会話では「俺はずっとこっちにいる」「向こうの世界はいい世界かね」と言っていた意味もわかる。

ナツコが自分から向こうの世界に行ったのも、産気づいたから。現実世界のナツコの病床には百合の花が置かれていたが、百合は「無垢」の象徴。女性はその身体が産みの機能を備えているという点でケガレの要素を孕んでいるが、同時に、またそれ故に無垢でいなければならないというアンビバレンスを強制されていることが示唆されている。
それを踏まえると、真人の「行きたくて行ったんじゃないと思うよ」というセリフも深みをおびて聞こえてくる。

向こうの世界のナツコの部屋にあった白い紙は明らかにキリヌサをモチーフにしたものであろう。お産のケガレを祓うはずの紙があの世界では逆に真人を祓う。

ナツコの産屋にヒミが入らないのは、女性という性がケガレているという見方を内面化しているから。これはそのまま、ヒミが元の世界に帰る方法を知っていながら帰らない(帰らせてもらえない?)理由に繋がる。向こうの世界で少女のままでいることで、かろうじてケガレから免れるのであればその方がいいというのが大叔父の意思(宮崎のロリコンでもある)だからだ。

その点、真人はそのケとケガレの区別が恣意的なものでしかないことを理解している。大叔父の都合で連れてこられた鳥たちの存在が、観客にもそれを分かりやすく伝えている。
真人はその区別が、生身ではこの世の不条理にとてみ耐えられない人間たちの、勝手な線引きであることを知っている。

それ故に真人はペリカンを他の生命と同様に弔うことができる。
人間の「文化」が、誰かを向こう側に追いやることでしか秩序を保てない、どうしようもないものであることを真人は知っているし、観客もそれを知っている。

戦時下の日本が舞台でありながら、男性や父親にまったく存在感や権威がないように描かれる点で、その『オデュッセイア』的な非秩序な世界観は自然に観客に伝わる。
恣意的にでっち上げられたその秩序は、恣意的であるが故に。誰がが必死に新たに組みかえたとしても「1日しかもたない」ほど脆い。

真人はその秩序を放棄し、混沌とした不条理の前に為す術なく呑まれる未来しかないとしても、向こう側に追いやられた者たちと通じ合うことを望む。アオサギや、キリコやヒミと友達でありたいと望む。
ヒミが自分の意思で元の世界に戻る決断ができたのも、ケガレを受け入れた結果が単なるケガレの再生産に終わるのではなく、真人のような友愛のための凪いだ無謀さを産むことに結実することを理解したからではないか。
文化以前の生命としての産みの可能性に希望をみて、元の世界で少女ではなく、女性として生きることを選べたのかな。

そういう意味で、この映画は宮崎駿の罪滅ぼしでもある。宮崎は今まで、化け物や自然や神や魔術など、「向こう側」の世界の住人にスポットを当てて、そのエネルギーや美しさを表現してきた。しかし、それは考えてみれば極めて身勝手な行為であるとも言える。人間の都合で向こう側においやった存在を、今度は表へ引っ張り出してきて、都合よくデフォルメして持て囃す。意図したものかどうかはさておき、宮崎作品は「トトロかわいい〜!」「ハク様〜!」「ハウル様〜!」「ポニョ〜!」といった消費のされ方をしてきた事は事実だ。
しかし現代の観客が美しいものだけを娯楽として消費する一方で、その「向こう側」には、死者や、被差別部落とされた人々や、女性の性がフィクションでなしに生きているのだ。『君たちはどう生きるか』は、その現実にとことん向き合っているという点でこれまでの宮崎作品とは異質のものであると言える。
最後に、真人たちが元の世界に戻ってきた時、彼らの顔はインコの糞に塗れている。ケガレに塗れた笑顔のなんと美しいことか。
糞まみれのいのちを生きる!宮崎のそんな人間賛歌を感じました。
幸ドン

幸ドン

幸ドンさんの鑑賞した映画