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《ジャンヌ・ディエルマン》をめぐっての海のレビュー・感想・評価

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20代の監督に何度も質問や意見を繰り返す40代の役者。シャンタル・アケルマンとデルフィーヌ・セイリグのその姿を見ていた。ジャンヌという女性をひたすら追い続けるあの静かな作品の裏で、ここまでの対話や受け応えがあったことに驚いたし、何よりうれしくて泣きたかった。セイリグが音響技師と言い合う場面は見ていて苦しかった。彼女は、女性監督の現場を今までで一番楽しかったと語り、女性が制作現場で自由に振る舞い安全に発言し仕事ができることは決して当たり前ではないというようなことを語る。それが、手を取り合えるはずだった相手に理解されないというのは、どんなにつらかっただろうかと思った。彼女があらゆる現場で戦ってきたということは、彼女の物怖じしないはっきりとした発言の数々から十分に感じ取れた。今20代のわたしがもしもあの場にいたら、彼女のような歳上の女性の存在は、すごく有難かっただろうと思った。そしてそんなセイリグに時には困惑しながらも寄り添い、対話し、演じる姿を見据えるアケルマンの目付きを見ていると、わたしの中の、生きていくかぎりは日々欠けていくしかないある部分が、また何度でも欠けられるようにと、少しずつ、満たされていくような感じがした。それから、実際にわたしたちの生きる今の時代で、クリエイターたちには十分な選択肢が与えられているのか、差別や偏見による不当な扱いを受けず自由に創作ができているのかを考えた。ううん、考えずともわかった、まだ足りない。やさしくて、自由で、強かで、善良な、わたしたちのまなざしと精神は、それが守られ保障される世界は、まだこんなものじゃないでしょうと毎日、おもっている。今から10年後も20年後も、過ぎ去った時代にこんな制作現場があり、それが映像作品として残っていることは、重要で、だれかをかならず救うだろうとわたしはおもう。それから、わたしはアケルマンが見ている女性という存在に、すごく共感しているのだとおもう。たぶんこれは『ノー・ホーム・ムーヴィー』を観た後により強固になるだろう。わたしがこれまで大事におもってきたひとたちやキャラクター、その中の女性たちに、わたしは共通した、全く同じ感覚を貰うことが今までに何度かあった。それは花や小動物を「可愛い」とおもうときの感じに似ていて、でもそれよりももっと複雑で、もっと深くて、もっと、果てしない。「いとおしい」にも近いけれど、それよりももっと、本当に、複雑だ。彼女たちが、女性のからだで生まれ、女性として認識されながら生きてきたこと、その華奢で美しい手が、眠たくてぐずる子どもの背をやさしく叩き、汚れたテーブルを布巾越しに撫で、女性性的に求められるままにしなやかに舞い、時間を経て骨や傷跡の痛みに耐えるため強く握られてきたことを、わたしは考える。あなたが何を選び、何を選べなかったのかを考える。与えられなかったから、知ることすらできなかったことについても。わたしはまだ彼女の作品すべてに触れられてはいないけれど、シャンタル・アケルマンは、そこに映される女性たちと、これ以上ないほどに親密であり、同時に、彼女たちは常に謎めいていて不可解でもある。その、わたしが深く精神的に受け取っている女性の姿を、肉体や、肉体の動きを以てアケルマンが表現していることに、わたしは本当に、ひれ伏すしかないと思った。
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