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フェイブルマンズのkyonのレビュー・感想・評価

フェイブルマンズ(2022年製作の映画)
4.5
「出来事にはすべて意味がある。」

スピルバーグの自伝的作品。
たしかに個人的に映画好きなのに、
彼のキャリアは映画オタクでジョーズで大ヒットさせた、くらいからしか知らなかった。そして他のレビューにもあるように、イケイケ〜な予想とは違って家族や周囲との繊細な感情が連なる群像劇。

そして主人公サミーを通して語られるのは、映画に魅せられ、夢中になり、あるとき距離を置いたとしても再び自分のもとに訪れてるひと、もの、ことたち。そしてその背景には彼の家族たち、フェイブルマンズとの必然とも呼べる出来事の連なりの中で彼が映画にたどり着いてしまう瞬間が語られていく。

私は映画の中で主人公たちが映画を観ているショットが好きなんだけど、サミーが作った映画に対して、母親のミッツィが最初の観客でよかった。

きっと、最初は家族が喜んでくれた、見てくれたから映画を作ることが楽しくなって、次第に物語を作ることに夢中に。そしてそれを数人の友人から40〜50人規模のチームで作ったり、学校行事として学年全員を撮影したり…失恋したり笑 次第にサミーの人生の経験そのものが芸の肥やしみたいな、いってしまえばネタみたいに考えて、あるとき狂気じみてくるみたいな。
クリエイティブにはある種の狂気が必ず必要になる瞬間がある。だからそれを観たり関わった人間は狂気を感じて感情が何かしら動いてしまう。

どうしてもサミーにとっては映画はコミュニケーションツールであり、芸術であり、彼の分身である、ということを観客たちの顔のカットから伝えてくるからずるいよね。

そして欲求でもある。最初の衝突からはじまり、ミッツィのある事実を編集して隠したい、いじめられていても5分だけでもあのイケてる友人と「友達」になりたい、とにかく面白い絵が撮りたい。映画の中の編集にはそれくらい欲望の創出を可能にできる何かがあることをサミーは知っていて、だからこそ現実とフィクション(嘘)の狭間で引き裂かれていたように思う。

「素晴らしき哉、人生!」みたいに、パズルのピースがひとつひとつはまって、何ひとつ、無駄なことではなかったこと、好きなことをする上で、他者との距離の取り方、運命的にキーマンと呼べる人が語られていく。

今作は、スピルバーグ自身がユダヤ系であることがひとつのキーワードにもなっていて、そこがやっぱりスピルバーグ自身が作品を通して今だから描いているような、機は熟したんだぞという印象を受けた。

ミッツィの衣装よかった。
多分この作品のもう1人の主人公に近いんだけど、ミッツィの人生がサミーに影響を与えたのは間違いなくて、その人間らしい、自分の欲求に気づいたら隠せない、気づかないふりができない、そんな熱を帯びた気質の女性像に対して衣装が柔らかくトーンを作っていたな。悪女ではない、どこか憎めない少女みたいな印象になるように、当時の時代考証もあるけど、丸襟、オーガンジー、パステルカラー、ニットなどなど。

バートが出世していくにつれて身なりが整っていくのに対して、次第にカジュアルダウンしていくミッツィの服。終盤では、スーツ姿をちゃんて着ている夫に対して、アリゾナのミッツィは70年代風のラフな格好。それもある種2人の関係性の対比になっているような気もする。

妹ちゃんが言っていた、ベニーはママを笑わせてくれる、は確信的だったなあ。ね、人の居心地のよさってちょっとずつ変わっていっちゃうよね。

最初から結構じんときちゃっていて、途中途中泣いちゃったけど、最後の部屋のポスターぐるりとするカットはよりぐっときてしまった。

現代のニューシネマパラダイスでは?なんて思ったり。

ニューシネマパラダイスだと、トトがキーマンなんだけど、フェイブルマンズだと家族はもちろんだけど、やっぱりラストのあの人じゃないかな。笑

その時々に引き寄せ的な感じで出会う作品があると信じているタイプですが、この作品はまさにそうだったなあ。

どんなジャンルにせよ、芸術の枠組みで紡がれる物語やクリエイティブにはやっぱり人間の力になる瞬間や寄り添ってくれる力があって、そのクリエイティブがあればこの先生きていける、っていう原動力をくれるものがある。そしてそのクリエイティブを生み出す人間の背後には数えきれないほどの孤独が訪れているんだけど、きっとその孤独すら抱きしめて、作品に昇華しているから私たちはその不完全な余白に入り込めるんじゃないかな。

サミーに共鳴しながら、今観て本当によかったなと思った作品でした。

画は真ん中からは撮らない!!!(教訓)
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