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フェイブルマンズのしののレビュー・感想・評価

フェイブルマンズ(2022年製作の映画)
4.1
ホームビデオ撮りましたみたいなノリで自身のトラウマを「娯楽映画」として描くことで、ある種のセラピーを達成してしまうスピルバーグの怖さが、劇中エピソードにも本作自体にも表れていてゾッとする。映画を毛ほども美化しないが、気付くと我々もその共犯関係になっている。降参。

一見、家族の絆と別離をテーマにしたドラマが大部分を占めている。しかし本作の初めと終わりを顧みると、これは「恐怖の対象をコントロールする」ためのある種の防衛機制なのだと分かってくる。列車の衝突、父と母の衝突、アイデンティティの衝突、家庭と芸術の衝突。一貫している。

特筆すべきはその語り口だ。シンプルな小品のようだが、よく見ると一家の物語のなかにロマンスも青春もアクションもサスペンスもホラーも含まれている。水飲み場で本当に怖くなるし、学校の廊下は活劇の舞台だし、終盤で母親とのやりとりするキッチンの画はやたら美しい。そしてそのそつない、ある種暴力的な「巧さ」こそ、まさに劇中のサミーの手つきの延長上にあるものだ。

しかし、それらをただの見世物にしている訳でもない。例えば両親を断罪したりする視点はなく、あくまで「衝突」をカメラにおさめる行為が重要のようだ。そしてそれを観客と共有し、各々の衝突をそこに見出させ、数多の物語のひとつとなる。そうして初めて、監督も我々も何かを許せるようになるということなのではないか。

ここで疑問なのは、では劇中の主人公サミーにとって、映画は結局のところ何をしてくれたのかということだ。というのも、なにか明確なトラウマの克服や、その予兆が描かれる訳でもないからだ。その意味で、ラストで突然描かれる巨匠との出会いからの爽やかなエンドは、普通ならエピソードとして浮いているように見えるはずだ。

しかし、最後の最後での演出により、物凄い豪腕で一気にサミーのその後の全てまで接続させてしまうのだから恐れ入った。つまりは、「このサミー青年は、ようやく今あなたと一緒に“セラピー”を受けられるまでになりました!」ということ。『バビロン』のラストを2秒でやってしまったようなものだ。考えてみれば、サミーの設定は明らかに盛っているし、実際、例えば劇中の彼の映画は当時より洗練されたものになっているらしい。しかしそこにしっかり娯楽映画として没入させた上で、最後に作り物性を露呈させる。まるで「それでも自分はこうするしかなかったんだ。その意味が今は分かるでしょ?」と突きつけてくるようだ。だからあのラストは可愛い遊び心のようで、恐ろしい演出だと思う。「うわこの人コワッ!」となった。もしかしたら本作で最も事実に近いのは、むしろ巨匠とのエピソードの方なのではないか。

しかし、フェイブルマン家の物語が本作にパッケージされることは確かに素敵に思えたのだから、そういうことなんだろう。本作は「映画がアクチュアルに何かを解決し救ってくれた」という描き方を一切しない。家庭に不穏なことが起こると次のシーンで戦争映画撮っていたりと代償行為であることは示唆されるが、それで完全に満たされることはない。でも現実を良くも悪くも「面白がる」ことはできる。この映画がそうであるように……という説得力。だから誠実なのだ。なんだか映画というものがよく分かりました。
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