マカ坊

EO イーオーのマカ坊のレビュー・感想・評価

EO イーオー(2022年製作の映画)
4.6
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何となく二の足を踏んでる人は公開終了する前にすぐに観に行った方がいい。スピルバーグの「フェイブルマンズ」と並び、映画の凄みに圧倒される、まごう事なき今年のハイライトのひとつ。

同じくロバをモチーフとし、今作の出発点ともなった「バルタザールどこへ行く」の監督であるロベール・ブレッソンは、自らの作品で「モデル」と名付けた素人俳優達を起用し続けたことでも知られている。

彼らがプロの役者達と異なる点は端的にひとつ、「演技をしない」こと。

今作の主役であるロバ達もまた、劇中で演技をしない。どころか、当然ながら演技をするというアイデアすらそもそも持たない。

ブレッソンの「モデル」然り、近年ではイーストウッド等が職業役者を排した作品を撮る際の意図には、ある部分ではその空虚さの提示という側面もあるのだろう。演技の不存在から生じる不安感を埋めるべく、鑑賞者ひとりひとりに能動的な関心を持たせること。要は「こいつほんまは何考えとんねん」という疑問を抱かせるための装置としての機能。

事前情報や予告編から、今作もそのような効果を狙ってる部分もあるのかなと思っていた。実際ロバのEO達(撮影に参加したロバは、タコ、マリエッタ、オラ、ロッコ、メラ、エットーレの計6名)の吸い込まれるような瞳や素朴な態度そのものからは、何らかの人間的な感情の兆しを見つけることは難しい。

ところが今作は、人類が生み出した、今のところ人類のみが共有する文化活動の成果物である「映画」によって、このロバが本来持たないはずの文脈と感情を導き出そうとする。

EOがサーカス団員との楽しかった記憶を思い出しているかのようにみせるフラッシュバックや、サッカーチームの"勝利の女神"となる際のカットバックなどにみられる直接的な演出。

ある痛ましい出来事の直後に唐突に差し込まれるロボットの映像はその背景色の赤とも相まって、EO自身がサーカス時代の"復活"の演目を幻視しているかのようでさえある。

これらの演出は、ともすれば過剰にロバのEOを擬人化してしまい、作品自体を安易な感動ポルノに成り下がらせる危険も孕んでいるはずだ。

しかしそうはならない。

EOの「主観ショット」が常に物語上の意味と切り離されているのもその理由の一つかもしれない。彼はただ視るものを視ている。(そう言えば監督はイレブンミニッツでも犬視点の映像を撮っていた。)
しかしこれも製作者の意図を反映しているという点ではまだ作為的だ。

今作が真に凄まじいのは、人類が発見し、共有してきたそのような数々の映画的手法を用いた「嘘」と、ただ生物としてそこに在るロバそのものの立ち居振る舞いの「純粋さ」とが、完全に拮抗してしまっている点だ。

こう書いておきながら、それが矛盾していることにも自分自身気づいている。
そうお前が感じるのは結局のところその「映画的手法」とやらがもたらした感情に他ならないではないかと。

そうなんです。なので混乱しているんです。
でもそれこそが楽しい。映画とは"答え"ではなく"問い"を持ち帰るものだからだ。

今作を観て得られるものはいわゆる「映画的快楽」だけなのかもしれない。ネタバレを気にしなければならないようなネタもバレも最早無い。ストーリーはあるが、語られる内容よりも語られ方にピントを合わせるべきだ。

EOの一挙手一投足は言うに及ばず。駆ける馬。倒れる巨木。風車。流れ落ちる水。地を這うボール。暴力。イザベル・ユペール。彼女に落とされる皿。運動を撮ること。それを観る事。そして音。音楽。映画を観ることでしか満たされない何か。そして映画を観ることでしか失えない何か。

スコリモフスキはこの愚者も賢者も狂騒する現代のサーカスの上で成した。ロバ≒純粋なるものの高遠さを一本の映画のように扱うことができるという傲慢な発想そのものと闘う為に、まさにその「映画」を用いるという離れ業を。

今作に寄せられた濱口竜介監督のコメントを一部引用する。
「映画とは何か。つまりスコリモフスキとは何者か。」
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