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ブエノスアイレス 4Kレストア版のnetfilmsのレビュー・感想・評価

4.1
 会社の金を横領し、「ここではないどこか」を夢見た若い2人は、地球儀で香港の真裏にあるアルゼンチンの首都ブエノスアイレスへと向かう。到着した早々、イグアスの滝を見に行こうと話し合ったウィン(レスリー・チャン)とファイ(トニー・レオン)は旅の途中で道に迷い、頓挫する。そのすぐにでも破綻しそうな危うげなプラスチックのような関係は案の定すぐに壊れ、2人はそれぞれに見ず知らずの街で路頭に迷うのだ。だがほとほと疲れ果て別れたウィンの元に最愛の人は戻って来てしまう。それは帰巣本能の言葉で片づけるにはあまりにも困難で残酷な道程である。ファイが住む殺風景な部屋は、借主であるファイと訪問者で同居者でもあるウィンとが交互に入れ替わるように代わる代わる足を踏み入れる。『恋する惑星』が警官663号(トニー・レオン)の帰って来ない昼の時間にフェイ(フェイ・ウォン)が彼の身体を活性化させる映画だったとすれば、今作では永遠の夜にウィンを閉じ込めんとするファイの願望を表しているが、孤独な夢遊病者たちの心は皮肉にもすれ違い続ける。ブエノスアイレスの夜の街はファイにとっては生活の為の金を稼ぐ場所で、浮気なウィンにとっても無くてはならない時間なのだ。ブエノスアイレスの荒涼とした冬の夜で始まる今作は、殆ど夜しか出て来ない。数少ない昼の場面はイグアスの滝へ向かう途中に迷った道中と、オレンジがかった光に包まれた路地裏での草サッカーの場面だけだ。

 別れたいのに別れられない自堕落な関係を白日の下へ晒そうとすればそれは光である反面、ダメな自分を変えられずにいる孤独な夢遊病者たちは夜の闇へと留まる。延々と続く夜の描写そのものがはっきりとした別れを告げられずにいる恋人たちのメタファーだとすれば、ウォン・カーウァイは地獄のような2人の関係性へ我々観客を導くのだ。ソシアルダンスあるいはタンゴの場面の濃密な空気はかつてウィンとファイの間に在ったSEXをも想起させる。ウィンの拳の傷と包帯はファイにとっては最適な決断の猶予期間ともなり得るし、これまた時間差で起こった真冬の連れ回しの風邪引きも同じく対象を逆に反転させたものの完全なる猶予期間である。土着ではないもののこの街にしっかりと根を下ろし、順応しようとしたファイがいる一方で、常に「ここではないどこか」を夢見るウィンはどこにも心落ち着ける場がなく、心から定住出来る場を失った悲しい人間である。そんなウィンとファイの危うい関係性の中に割って入ったのが自由人チャン(チャン・チェン)に他ならない。聴覚に秀でた男はそれゆえにファイの苦しみをカセットテープに録音し供養しようとする。その時に席を外した男の感情は痛いほどよくわかるものの、ファイは想定していたような答えを遂に導き出せずにいる。香港返還後の想いをあえて地球儀の裏側に見据えたウォン・カーウァイの物語はその心眼は最初から香港を1mmも出ない。然しながら香港の真裏を揺蕩う孤独者たちの病巣は思わず息を呑む。レスリー・チャンも配給元であるブレノンアッシュも劇場であるシネマライズも今はもうこの世にはない。その絶望的な事実に思わず涙腺が緩みつつ、あらゆる場面に感情が揺さぶられた。
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