カラン

恋する惑星 4Kレストア版のカランのレビュー・感想・評価

恋する惑星 4Kレストア版(1994年製作の映画)
5.0
4KリマスターのUHDで視聴した。初めて観たのはVHSだった気がする。小さなブラウン管で観て、正直よく分からなかった記憶があるが、なんとなくサントラのCDを買って、フェイ・ウォンの「夢中人」を何度も聴いてたし、周りの友達も好きな人が結構いたが、映画を観かえすことはなかった。クランベリーズのカバーであることを知らなかったし、さらには、ウォン・カーヴァイという名も認識してなかったと思う。友達たちもたぶん一緒。

あれから20近く経つわけだが、今日、家のブレーカーを冷蔵庫以外は遮断して、休みの日の朝一番で観た。ルーターとかノイズだすやつらも遮断して、全部オフ。レビューも溜まっていないから、頭もすかんとフレッシュ。(^^) アナログ撮影後期の濃厚な映像が記憶の薄膜まで吹き飛ばしてくれて、まったく新しい仕方でクリストファー・ドイルの手持ちカメラに精神が同期した。


☆接近戦

『欲望の翼』(1990)よりも手持ちカメラは近いのではないか。ロングショットは4回、5回くらいだったかな。接近戦で若い人たちのエモーションを追跡して、振り回すと、キュベレー*みたいに光が軌跡を描き、星がでる。エモーションは目に見えない。ゴミ箱の中で雨に濡れた手紙の文字のようなもの。それはベッドの下やタンスの中に隠れていそうで、よく見ると見えない。虫メガネで探しても、見つからない。その不可視のエモーションを目で見るために、溝口健二の『残菊物語』(1939)の逆のスタイルで、本作は接近戦に挑む。近いから、カメラを振る。振るから、軌跡が見える。

*Ζガンダムで、感応性と予知能力が極めて高いパイロットが搭乗する、大気圏外での戦闘用ロボット。


☆ナレーション

金城武とトニー・レオンはやたらと独白が多く、何かを語って説明しているが、ひどく瑣末なことについて語る。例えば、石鹸の大きさについて語る。その時、ぼくと彼女の距離は0.1mm、57時間後、ぼくは彼女に恋をした、という有名なセリフがあるが、世界との距離にはやたらとドライだが、自分の世界に対してだけは柔らかく寄り添おうとする自分語りは、村上春樹に似ているなと。CAとか出てくるしな、と思っていたら、『ノルウェイの森』らしい。なるほど、本作は、重慶の森、ということなのか。

こうした村上春樹的な自分語りのナレーションは、時代のファッションである。この映画は、ナレーションに頼っていないし、ナレーションが何かを説明して、それでこの映画の人物のことが分かるわけではない。

だから、本作はナレーションよりも強度の高い何かに、どうしても訴える必要がある。それが、接近戦のカメラであり、サントラである。


☆ダンジョン的

金城武のアパートの部屋→東南アジア系の人々がお店を出している雑居ビル→ホテルの一室、という経路が前半。フェイのいるフライとコーヒーのスタンド→アメ横の雑踏のような露店がひしめく通り→トニー・レオンのアパートの部屋、という経路が後半。

前半の終わりに、明け方のロングショットが入る。また後半は、ジェット機がスクリーンを斜めに移動する手前で、制服のシャツがはためいている青空のロングショット。これらは雑多で感情が濃密に漂う閉域が連続する本作にあって、一息つかせてくれる気持ちよさはあるが、おそらくは鑑賞者への配慮でしかないだろう。

本作の映画空間はダンジョンのようで、《その先》が見えない。ある私的空間から別の私的空間に移動する。そういう意味で本作はオープンフレームになっているが、それは恋の道なのである。目隠しした恋であり、恋する島宇宙とそこにいたる通路なのである。

ウォン・カーヴァイは、ロングショットによって《道》を手前から彼方まで映すことで空間のコンティニュイティを確保しようとしない。『欲望の翼』では、世界の音、それから、強めにかけたカラーグレーディングでやっていた。本作、『恋する惑星』は一部は重複するが、また別の作戦で、独特の恋の島宇宙を生み出している。
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