クリプトン星人

ザリガニの鳴くところのクリプトン星人のレビュー・感想・評価

ザリガニの鳴くところ(2022年製作の映画)
1.0
序盤のハードな表現には制作者の「覚悟」を感じていた。
差別表現が減ってきているなか、敢えてそれを描くことで現実を直視できる。
ぬるま湯に浸かりすぎないための必要悪で大事なこと。
つまり、映画による差別表現が悪いのではなく、作り手の意識の問題なのだ。

そんな気持ちで見ていたから、細かい部分には目をつむりつつ、思考を巡らせていた。
だが、それにしても粗が目立つ。
キスシーンからのありふれた描写には「なんか違う」と思わず漏れた。
すごく表面的で、この作品の底が見えた気がした。
なぜなら、このシーンは物語の「核」の部分に触れると思ったから。

“無関心”の描写はうまいのに、“愛”の描写が絶望的にへた。

ただただ嫌な気持ちにさせられながら、物語は結末へ。
そして、ついに明るみになったこの映画の「核」の部分。
それはもう「しょうもない」の一言に尽きる。
こんなくだらない結末のために陰湿なものを長々見せられたのか。
弱い、あまりにも弱すぎる。

カマキリ女のアイデンティティー、人間の醜さを描いただけのこの映画は必要悪でもなんでもなく、ただの絶対悪だ。
虐待や差別を軽々しく映画の道具に使うな。愛について学んで出直してこい。

あ、それと映画の判決シーンで鳥肌が一つも立たなかったのはこの映画がはじめてだよ。映画作りも学び直してこい。

あ、もう一個。途中で中途半端な脚本に、もしかして実話を基にしてるのかと思ったが、小説か。
脚色が下手すぎて何かを基に作られてるってすぐ気づいたよ。原作者に謝ってこい。

とどのつまり、ピースの限られる映画というパズルのなかで、監督はピースのチョイスを見誤ったということだ。

しかし、母数の多い映画は過大評価が甚だしいな。
マーケティングだけは達者なんだから。

それにしても、世論の心の豊かさには脱帽。
「あなたはカマキリですか?」と問い質したい。
俺は図鑑には載りたくないね。


追記

監督のフィールドが気になり、他作のレビューを見てみた。
醜い人間を描く映画ばかりなのではと予想していたが、どうやら父親依存に関する映画を撮っているようだ。
愛を描くのがヘタなのはそういうことなのね。
なんともやるせない気持ちになった。
それと同時に自己投影の自慰映画だとわかって溜飲が下がった。
要するに監督の不幸自慢映画ということだ。
彼女のパズルには父親というピースが埋まってないのだろう。
願わくば過去を抱きしめ未来に生きてほしいと思う。


⚠理解できなかった人だけ↓へどうぞ…。(自己責任)










映画<全ては自然の摂理で善悪はない(復讐じゃない。虐待じゃない。差別じゃない。)自分の命すらどうでもいい(呑気にお絵かき)
世論<面白い。深いな。そうきたか。傑作だ。
俺 <善悪は必要。人間だもの。

映画<人殺しは悪じゃない。女殴るのも悪じゃない。幼女をイジメるのも悪じゃない。
世論<ポカーン。
俺 <悪だろ。胸糞悪。(対になる愛くれよ!)

映画<黒人に善の配役します。差別良くない(偽善かな?)
世論<黒人夫婦最高!(テーマ覚えてる?)
俺 <生きづれー!

カイア(映画)を容認=人殺しを容認=虐待、差別を容認

ある意味この映画は正しい。
この世はカマキリだらけだ。

「あなたは善?悪? それともカマキリ?」

いわずもがなだが、エンタメとして振り切っていたのならば無粋なツッコミはしていなかったと明示しておく。

あと「愛」を繊細にしっかりと描いていたのなら。

落葉や虫のような交尾ではなく、ね。


⇔完全に対となる映画『まなざしの長さをはかって/正しい距離』