レインウォッチャー

ぼっち・ざ・ろっく!のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ぼっち・ざ・ろっく!(2022年製作のアニメ)
5.0
これはアカン。10秒ごとに自分にビンタしないと、文量が1万字になるやつだ。

JK日常×バンド、というフォーマットには『けいおん』を思い出すなと言う方が無理な話だが、決定的に違うのはぼっちちゃんこと後藤ひとりにとって「これしかない」ことだ。
彼女にとっての音楽・ギター・バンドとは、外と繋がるための最後の可能性であり、この作品の熱に繋がっている。

もちろんそのコミュ障ぶりは日常ギャグアニメの範疇で誇張されてはいるけれど、独りの部屋で燻ってカビが増殖した承認欲求や妄想癖といったイタさ汚さに触れることで、「わかるわかる」を一歩超えた「わかりたくないけど、わかってしまう」に到達している。
ギター歴ばかり長くなって、一人で弾く分には上手いのにアンサンブルになるとガタガタ、というのは作劇の上でも巧い落とし込みだと思った。(実際、あることでもある)

ここで重要になるのがヴォーカル/サイドギターの喜多ちゃんである。
容姿も可愛くコミュ力おばけのSNSマスター、というまさにフロントマン向きの彼女は、ひとりにとってはナチュラルメンタルブレイカーみたいな生物だし、出戻りのようにバンドに加入したりと序盤のイメージははっきりと良くない。

しかし、終盤に差し掛かるにつれ彼女の存在は徐々に大きくなり、ついに反転する。
「誰かを支えるのは得意みたいだから」。キラキラしたリア充まっさかりに見える彼女にも器用な秀才ゆえの哀しみのようなものがあって、ひとりに憧れていたこと。彼女たちは鏡合わせのような存在であること。

最終回の文化祭ライブシーンで、喜多ちゃんは演奏中もひとりのほうを常に気にして見守っている。このアイコンタクトは演奏においてもめちゃくちゃ大事なのだけれど、ひとりはまだ自分の足元から顔を上げられていない。
これからの伸びしろを感じる場面であり、いつか喜多ちゃんと目が合う瞬間の凄まじいスパークを予感させる。

「君と集まって星座になれたら」
これは劇中歌『星座になれたら』の一節だが、これまでこの世に「誰かと一緒にいること」を何かに喩えた詞は数多あったけれど、まだこんなに美しい表現が残っていたのかと震えた。

さてこのシーズン1は、ひとりの本当になんでもない台詞で幕を閉じる。しかしそのなんでもない一言が、1話の頃の彼女には口にすることすら想像できないものだった。
外から見ればきっと微か、でも間違いなく確かな成長を凝縮した切れ味を、指に食い込んだ弦のように温かい痛みをもって受け止めつつ、今は彼女らに会えないことが只々寂しい。

ところでfilmarksの星が5つしか付けられないんですけど、なぜですかバグですか?残りの49995個どうしたらいいんですか?