きゃんちょめ

金色のガッシュベル!!のきゃんちょめのレビュー・感想・評価

金色のガッシュベル!!(2003年製作のアニメ)
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【フォルゴレはライオンではなくカバさんをより重要と考えている問題】

「明日へ続く坂道の途中で
すれ違う大人たちはつぶやくのさ
「愛とか夢とか理想も解るけど
目の前の現実はそんなに甘くない」って
つまずきながらも転がりながらも
カサブタだらけの情熱を忘れたくない
大人になれない僕らの
強がりをひとつ聞いてくれ
逃げも隠れもしないから笑いたい奴だけ笑え
せめて頼りない僕らの自由の芽を摘み取らないで
水をあげるその役目を果たせばいいんだろう?」

→クリア・ノート編まで読めばわかるが、フォルゴレはおそらくかつてイタリアの暴力青年だったのだと思う。そのような描写があるからだ。そしてそのことはフォルゴレが何度もザケルを食らっても死なない屈強な青年として初登場することとも整合的である。「カサブタ」はフォルゴレのような人物がもつ現実概念の発展過程について歌った歌なのだろうと思えてならない。


【A→C→Dの順に現実という概念が成長していく】
「具体的な事柄は実に多様で、その細部をきちんと見るなら、言い換えればその細部の生まれ具合を見るなら、次のような仕方で考察しなければならない。幾つもの細部はどういう点で似ている――従って同じ概念で捉えてもよい――かを確認しつつ、他方ではその違いを尊重して、互いの位置関係を確かめねばならないのである。たとえば、敢えてややこしい例を挙げると、根本にある概念(=A)とそれから派生しつつ根本のものと或る共通性を持つ概念(=C)、それから、後者の概念が元となったものへと被さって新たに生まれて、先立って生まれた概念と共通性を保つ概念(=D)というような位置関係である。このような位置関係の例は次のようなものだ。「現実(A)」と{想像(B)}とは対になって生まれる概念だが、私たちは人が想像すること、および想像内容も一つの「現実(C)」であると気づく。だからCはBを材料としつつAから派生した概念である。そして、このCという概念がAの概念を覆うことで、概念Bと対立する現実の概念Aの代わりに、より広範でより適切な現実概念(D)が生まれる。このときもちろん、概念Aと概念Dとは共通性を保っている。それから、Dという概念の適切さは、現実というものは時間的なもので変化してゆくものだが、その動きに、人が想像するということが寄与するということにおいて明らかである。」

→概念Aと概念Dの共通性:どちらの概念も、人が生きる中で重要になるものという意味であること。

→概念Cと概念Dは何が違うのか:概念Cは概念Aを含まないが、概念Dは概念Aを含んでいる。

【参考】
現実(=A)主義者「現実には1種類しかない。それは、人間側の都合で変わったりはせず、こちらに迫り来る力としての社会や自然のルールのことだ。ボールは何度やっても下に落ちていき、次にやったら上に昇っていくことはない。上に昇っていけばいいのにな、というこちら側の想像を打ち砕いてくるあちら側からの力こそが現実なのだ。」

現実(=C)主義者「現実には2種類あって、一方で、想像次第でどうとでもなる想像内容だって重要であるがゆえに、想像内容という現実があり、他方で、想像力によってどうとでもならない秩序という重要なものが知覚されるのだから、知覚内容という現実も別にあるのだ。変わりえる現実と変わりえない現実、このふたつの現実は、区別して考えましょう。」

現実(=D)主義者「現実には1種類しかない。それは、生きるうえで重要になるものどものことだ。それはつまり、人が切り出す自然の秩序や人為的秩序のことであり、しかもそれは、人の想像力によって徐々に改変されていきうるような柔軟な秩序でもある。その時間的に変わりうるのだがある程度安定もしている秩序が現実と呼ばれる。」
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