アニャ・テイラー=ジョイがついにお披露目されるシーンは素晴らしかったし(そこまで時間かけ過ぎだが)、その後のトム・バークとのタッグも良かった
奇跡的な前作がむしろシリーズの中では特異だったということで>>続きを読む
巨大な画面外を抱える映画全体の構造とは対照的に、垂直・平行・直角性の際立つデクパージュと、時には動物にすら適用される厳密なカッティング・オン・アクションに基づくモンタージュによって人物達は画面外への逸>>続きを読む
さすがだと思う瞬間は何度かあれど、過去作と比べて残る物足りなさの正体はどこにあるのか考えたい
おそらくワンカットだけその姿が映り込む監督本人が構えるカメラに、今までのような試行錯誤の緊張感が減り、眼前>>続きを読む
その後のリヴェット映画の要素やモチーフはほとんど出揃っているが、散逸することなく割と真っ当にノワールをやっている、まあこれはこれで面白い
ワンシーンのみ登場するゴダールが誰よりもかっこいい
いくらでも嘘や捏造が入り込める言葉というものへの信頼が地に堕ちているが故に、つねに身体がすべてに先行している、身体が出来事を生み出し、それぞれの身体が韻を踏みながら連動する
人間同士一対一のドラマが沸>>続きを読む
物理的にも精神的にも、動かないはずのものが動いてしまったらどうなるか、母親との面会後に引き返そうとしたエドガルド少年のすっ転びが見事
めちゃくちゃテンションが上がる訳ではないが、ずっと程よく面白い、画>>続きを読む
ジェーン・バーキンが常にひたすら格好良くて最高、特に衣装
曜日を示すテロップが出される度に時間の流れの異常さに毎回驚く、3時間はどう考えても長い
シリーズ最終作ゆえの集大成的作劇には感慨深さだけではなく多少の辟易も入り混じるが、母親の遺影オーバーラップ(ラストの写真の目元クロースアップとも共振する)にはやられる、最もエモーショナルな事件はドワネ>>続きを読む
起きている事象において常に強調されるのは距離的な差異ではなく、時間的な差異である(1945年の社会がすでに、現代の「時差」が存在しないとも言える状況にあったとしたら、原爆の投下に関わる事態は同様に進展>>続きを読む
マヌエル・ノイアー以降そのポジションに求められる役割は激変したが、自チームが敵陣深くまで攻め込んでいる時のゴールキーパーというのは確かに出来過ぎなくらいヴェンダース映画を象徴している
シュミットの映画において過去、記憶の想起と密接に関わるのは常に聴覚への刺激であり(「ヘカテ」のラストの音楽、「デジャヴュ」のレコーダーや鈴…)、サミー・フレイが過去の自分から手渡されるものもまた同様で>>続きを読む
虫に乗る試験、鍛錬の様子が描かれないので成功によるカタルシスが足りないと思ったが、事象のほとんどは原因や過程があまり描かれずに結果が提示され続けるという意味では一貫している、それもあってかあまり長さを>>続きを読む
映画の編集点について「民主主義は無用だ」と話すストローブ、その実践の様子が撮られるこのペドロ・コスタによる映画がまさにその教義のもとにある、「シチリア!」編集画面から切り替わって初めてユイレの横顔が映>>続きを読む
オープニングクレジットが出た瞬間からすでに、時間の折り目がくっきりと見える、その折り目に向かって投げ込まれた鈴と(大量の)梱包材
「それがいつか起きるのも、すでに起きたのも、起きつつあるのも同時である>>続きを読む
「アメリカ」制作中のメイキング映像と続けて観たが、二人の関係性が結構違って見える、そちらでは助監督的な立ち回りをしているようにも見えたユイレだったが勿論そんなことはなく、序盤で「抵抗」が引かれて「二人>>続きを読む
俳優だけが演じることができる、とは残酷でもあるが誠実な姿勢でもある、プロフェッショナルな俳優としてのサッシャ・ギトリの格好良さに満ちている
座席の変更、死体の隠し場所、脱線後も継続する密室、照明と透視…などなど書ききれないくらいの様々な要素が、ワンツーでDFラインを崩していくかのように複層的に作用していくのが堪らない、おまけに雇用契約の解>>続きを読む
無理に喩えるなら「羅生門」スタイルの三幕がカットごとに切り替わる映画を見ているようであり、まるでカメラの位置や動きが脚本上で指示されているような気持ちの悪さを覚える
その方法自体が悪いというより、「真>>続きを読む
100分以内には収めて欲しいが、時折挿し込まれる、置いてはならない場所にカメラを置いているような、禁忌を犯しているような感覚を覚えるショットがテーマと呼応しているようで良い
現実⇔創作という大枠から人物のアクションにまで通底する相互通行性、行為に先立ってそれが言葉で示される(フィクションにおける「演出」の機能)という原則も徹底され、平手打ち⇔キスの歪んだ相互通行へと至る
徹底された屋外の不在、時間の絶望的な重たさを一蹴するかのようにモノローグの途中で唐突に差し込まれる、夕張の雪道を捉えたスー・チー不在の二度目のオープニング・ショット
マーロン・ブランドのシーンとジャン=ピエール・レオーのシーンで明らかにノリが違うというかレオーがベルトルッチ映画のノリからずっと逸脱している、だから彼は自分で映画を撮っている
72年なので本当に一番良>>続きを読む