手中にあるものの尊さをかなぐり捨てることで得られてしまう風景。得る必要もなかったという後悔を予測しきっても、飛び込む人は、またいる。
善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや。悪が善へ転じることよりも、善が悪へ転じることのほうが面白いことの根源的不快。
私の眼と似ているからなのか(と思える内容だからなのか)、観ているものは私が見ていることと変わらないのではと思えてしまう。
撮るものと撮られるものの対話が1秒も混入しないのは、ありがたい。
風景と物語の分別がつかぬまま途方もない時間だけが流れてゆく。
環境管理型権力とパターナリズムの悪魔的融合。自暴自棄になるのは容易いがゆえに、哀しみもまた深い。
所与とされすぎる暴力と権力の無自覚さを露呈するために、付与としての暴力と権力の映像と演出だとして。内容物および経験としてクソでありきることで、現実への反作用を目論んでいるならほぼ失敗だ。
もちろん、>>続きを読む
放浪への衝動、母や故郷への思い、歌や虫の鳴き声からくる魂の戦慄…それらの慄きを引き起こすものを小泉八雲は「われわれの内部にひそむ、無限なるものにかかわる何か」「何百万年にも渡る無数の記憶の戦慄」と考え>>続きを読む
帰路が叶いはじめ(安定状態への移行)、それに付随するように、娘に遭遇する(不安定要因の外在化)過程における乱れ。
人間であることすら叶わない(ことを厭わない)現在の描写。
別の形をとった、静かなる、哀れなるものたち。
ヒステリーという魔術的な言葉(による対人認識)を極度に高めていく手腕。正気と狂気の間隙を縫い合わせるのは自信ではなく承認であることを潜ませる狡猾さ。
老いることと若くあること。達観と盲信の交叉領域における無が析出されている。
The弁証法的發展。所与とみなされているもの、気付くこともなく自明とされているものの一々を事象化し、対抗し、克服していく。
"自分のものでない印象を私は生きる。諦念のうちに自分を濫費する。私は自分自身であることのうちでさえ、他人なのだ。"『不穏の書』
信仰に含有する喜劇性を自重抽出。