壊滅的駄作。説明的な台詞が延々と続き、緩急もなく冗長で退屈極まりない。サイコパス映画を撮り続けてきた三池崇史が本作を撮ったのは冗談なのか、今までの自作に対する弁明なのか。染谷君が生き生きとしているのだ>>続きを読む
この世界は何かの犠牲の上にバランスを保ち、成り立っているということ。
薪割りの身体性=自然と古川琴音さん繋がりで、『悪は存在しない』に通じるテーマ性を感じた。
お見事。
水木しげると戦争が残したものを、いかに現代に引き継ぐことができ得るのか。その答えがここにある。
戦争は女の顔をしていない。
ひれ伏す人民たちの間で刺し違える男二人と、なお決然と屹立する女二人。決闘場面がすべてを表していた。
欠けている不完全な者同士がひとつになることで、はじめて人間として「完成」するという神話的な原型構造。
作り手はそこからさらに一歩踏み込んで、不完全な人間の虚や愚かさを真摯に見つめている。
ナ・ホンジン>>続きを読む
30年後の『お引越し』。でもレンコとは違って、あみ子の世界はもっともっと過酷で容赦がない。
あみ子には自らを「祝福する」に至るだけの時間も余裕もない。「大丈夫」という言葉は、もしかしたら「助けて」とい>>続きを読む
ただただ素晴らしい。
人が人を救えるという欺瞞を知ってなお残るもの。それこそが、尊厳。主演のヘレナ・ゼンゲルがすべてを圧倒している。
現代的な一組の夫婦から、西欧キリスト教世界の根底にある女性嫌悪を抉り出していく、という話として見た。
「男性」を演じるのがロニー・キニアというのが良くも悪くも本作のミソで、これが例えばカンバーバッチ>>続きを読む
人は見かけ=表象だけで生きているわけではないということを、映画=表象で表現しなければならないことの難しさ。緊張感を欠いた演出はやはり鈍重と言わざるを得ない。
タランティーノにとって、映画=虚構とは現実逃避ではない。いや、むろん最初はそうだっただろう。映画を愛するものにとって、それは誰もが通る道だといっていい。
だが、『イングロリアス・バスターズ』以降に展>>続きを読む
世界の終わりに取り残された人々。
終わりの「渦中」ではなく、あくまでも「傍観者」としての視点を貫くことで、自らの制御や範疇を超えた次元で起こっている終末との距離感が恐怖を生む、はずなら良いのだが。いや>>続きを読む
たかってくる蝿にイライラするディカプリオの描写、あれぜったい『ラスト・ワルツ』のロビー・ロバートソンへのオマージュだよね。
チョン・ジョンソにアクションのポテンシャルが欠けているのが辛いところ…。マーケティングの産物という印象。
円を描くように何度も浮かび上がる「瞳」のオブセッション。昏睡と覚醒。「あなたならどちらを選ぶ?」とオリヴィア・ワイルドは観客に問いかけてくる。
そう、本当はあなたなしでも生きていけるのだ。真の愛情は>>続きを読む
多少びっくり系のきらいはあるものの、明確な意図と意志をもって人智の及ばぬ形而上的=鳥瞰的視点を取り入れているところは評価できる。ホラー映画はこうでなくては。
良き。お爺ちゃんインディの時空を超えたマジカルミステリーツアー。
ある意味で考古学的ロマンティシズムを全否定しながら、郷愁と死に場所を求める老人に「何言ってんだ! あんたはいまを生きるんだよ」と拳骨>>続きを読む
無垢なる赤子による復讐。
『白熱』のジェームズ・キャグニーといい、ベビーフェイス俳優が繰り広げる暴力は、夢と可能性の国アメリカのイノセンスを極めて象徴的に責め苛む。今ならケイシー・アフレックがぴったり>>続きを読む
技巧=構造と意匠と決め台詞にばかり気を取られてしまった。分かりやすく、あからさますぎやしませんか、と。ラガーマン、テレビの影響、中村獅童、「aqua」の使い方。
終わりを記録すること。
山下敦弘監督の意図は明確だ。それは冒頭のビデオカメラで撮影された文化祭の映像からも分かる。ゆえにここにも終わりから見た現在が持つある種の静謐が流れている。夜の体育館でMCをす>>続きを読む
もうすぐ消えてなくなるかもしれんと思やあ、ささいなことが急に輝いて見えてきてしまう。
山下敦弘監督作品に流れる「静けさ」。
それは常に「終わり=デッドエンド」の視点から世界を見つめているからかもしれ>>続きを読む
とても良い。『熱帯魚』『ラブゴーゴー』のチェン・ユーシュン新作。
一歩間違えれば下世話な御涙頂戴のファンタジーになるところだが、テーマにも通じているように、他者への距離感が絶妙。近づきすぎず離れすぎ>>続きを読む
革命やテロルだと嘯いてみても、現実ではすでに山上徹也という存在がいるわけで。
俳優の個性を生かし、アウトローたちを描く山下×向井コンビの演出力と脚本は太鼓判だとしても、やはり現実に訴求する力が弱く、や>>続きを読む
このレビューはネタバレを含みます
再々見。別れた妻に知られないよう深夜にこっそり庭の手入れをするスティーブ・カレルのバックでかかる「This must be the place」。ダメな大人たちを見つめる少年の眼差しで終えるラストカッ>>続きを読む
ヘルツォークが描き追い求める人間はつねに不変だ。それはドストエフスキーのいう「一杯のお茶のためなら世界など滅んでもいい」という言葉をそのまま実行する人物である。
着眼点は面白いのだが、コメディ要素を詰め込みすぎたぶんやや冗長かな。
しかしナワポン作品の中心にあるのは常に愛情と思いやり、誠実であることだ。そこが好き。