あましょく

幾多の北のあましょくのレビュー・感想・評価

幾多の北(2021年製作の映画)
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自分と他者、他者にも自分と同じように自分の世界があるって気づいたのはいつだったかな。その辺に歩いてる人の頭の上にボワンとそれぞれ世界が乗っかってるみたいな。そんな感じに山村監督の思想体が、ていねいに、偏在している北の子細な破片と繋がりをみながら、作品の終わりには形づくられるのをみて、鑑賞者の私なりに組み上げられていたみたい。
画力に対して、テキストは位置もフォントも大きさもなにか違和感を感じていたけど、さすがバラカンさんがそこを違和感としてではないけど突っ込んでくれたし、監督としてはことばの表現は苦手意識があったり断片的なことばのスケッチとして使うこともあるって話だったんで、うんまあそれも含めて監督の創作世界だったんだなと今は感じている。いつか近い未来に実現されると思うけどことばによってではなく、発信者の考えがそのまま伝わるツールがうまれるだろうから、そういうのがあるといいのになあと思った。
全体に漂う寂しさやもの悲しさ、不安なイメージは震災後の当時の影響があるとかで、災いは下から来るもの、繋がっているもののイメージで根のようなものが伸びている。史上、物語が生まれたときからも残っている災害のイメージ。監督のオリジナルではないが、大昔から人間がずっと感じている表現があらわれてくるので、テキストなくても共通知だけでアクセスできそうな気がする。
災い・不安だけでなくて、神経のシナプスのようにもみえるし、個の世界のようにも、世界そのものの全体を繋いでいるようにもみえた。細胞は知性を持つのかなども、そこには存在しない脊髄の空間をみながら考えていた。
文学界で掲載されてたときは面で表現されてただろうから、伸びるもののを辿る連続性や時間を心地よくたのしんだ。
目の前にあることは存在するのか、って問いかけは個人的にはわりと不思議で、アニメーションは実写ではないから創造主はかえって実在を感じられているのかと思ってたけどなあ。

カフカのアフォリズムからの影響の話もあったので振り返ろうかなと思ったけど、西洋思想じゃなくてそのへん踏まえた日本の哲学の方がいいかな〜と思って結局西田幾多郎を振り返った。その日はわんわん泣いた。
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