オルキリア元ちきーた

LAMB/ラムのオルキリア元ちきーたのレビュー・感想・評価

LAMB/ラム(2021年製作の映画)
3.0
LAMB
2021 アイスランド・スウェーデン・ポーランド合作
監督:バルディミール・ヨハンソン 脚本:ショーン バルディミール・ヨハンソン
製作総指揮:ノオミ・ラパス 他

出演
マリア:ノオミ・ラパス
イングヴァル:ヒナミル・スナイル・グブズナソン
ペートゥル:ビョルン・フリーヌル・ハラルドソン



『あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。
その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて
いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。

そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ

家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め
『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』
と言うであろう。

よく聞きなさい。

それと同じように
罪人がひとりでも悔い改めるなら
悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが
天にあるであろう。』

ールカ15:7

『そこで、イエスはまた言われた
「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である』

ーヨハネ10:7


『主なる神はこう言われる

あなたがた、わが群れよ、見よ
わたしは羊と羊との間

雄羊と雄やぎとの間をさばく』

ーエゼキエル34:17

キリスト教の中には、羊と羊飼いの喩えで神の教えを説くキリストの言葉が多数登場する。

聖書の中では、イエスキリストは「正しい羊飼い」であり
人間は「迷える子羊」に喩えられる。

旧約聖書には更に山羊も登場する。

羊は羊飼いに導かれるものであるが
山羊は、聖書の中では人間の罪を背負って生贄にされる存在であり
自分の勝手な考えや価値観で動く、羊飼いに従わない無信者としてのイメージが与えられている。


ーーーー本作あらすじーーーー

山間に住む羊飼いの夫婦。
ある日、二人が羊の出産に立ち会うと、
羊ではない何かが産まれてくる。
子供を亡くしていた二人は、
“アダ”と名付けその存在を育てることにする。
奇跡がもたらした”アダ”との家族生活は
大きな幸せをもたらすのだが、
やがて彼らを破滅へと導いていく—。

(オフィシャルサイトより)

以下


レビューはネタバレも含みますが、私の考察であって、物語の真意とは異なるかもしれません。

本編を鑑賞後に以下はお読みください。

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本作は、とにかく「息遣い」がキモだと思う。
風の吹く音、雨音、川の流れる音、トラクターのエンジン音
もちろん人間の呼吸も、羊たちの息遣いも、猫の喉を鳴らす音、犬の呼吸や鳴き声…

冒頭から何者かの息遣いで物語が始まる。
それは、クリスマスイブ。
イエスキリストの誕生日。

呼吸音の持ち主は、吹雪の夜の中、主人公達の羊小屋に侵入する。
ざわつき逃げようとする羊達の中から、ある雌羊だけが飛び出し、ぐったりと横たわる。

羊飼いの夫婦の元に、ある日異形の子羊が生まれる。

夫婦はその子羊に、かつて失った娘の名前「アダ」と名付け
まるで我が子のように可愛がるようになる。

しかし、その子羊を産んだ親羊は、引き離された子羊を探し回るようになる。
窓の外で呼ぶ親羊の鳴き声に返事をするアダ・・・
しかし、それも時間が経つと返事をしなくなる。
次第に屋内の生活ー夫婦の子供としての生活に馴染んでいくようだ。

羊飼いの妻の名はマリア。
これが、イエスキリストを産んだ聖母マリアだと考える人は多いが

聖書の中にはもう一人有名な「マリア」が存在する。

十字架に架けられ、死んだ後に復活したイエスを一番最初に見た女

「マグダラのマリア」である。

「マグダラ」とは、地名だという説もあるが
キリストが生きていた当時にマグダラという地名は存在しない。
「マグダラ」とはヘブライ語のMigdal Ederをギリシャ語読みすると「マグダラ」となる。
Migdal Eder とは『羊の群れのやぐら』という意味。

そして一説では、イエスキリストの妻となった人とも言われたり

また別の説では娼婦であり、不義の女性だったがキリストによって改心した女とも言われている。

本作のマリアは夫イングヴァル の弟ペートゥルに言い寄られるシーンが何度か登場する。
どうやらマリアは、ペートゥルと不倫関係の過去を持っている様な匂わせ方だ。

マリアの夫であるイングヴァルも、娘アダが亡くなった後、妻マリアの悲しみを中々癒せずにいたのだろうか。
本来の夫婦は、サッカー観戦を楽しみ、酒を飲んで明るく騒いだり、音楽を演奏したりカードゲーム をする様な明るい関係だったのだろう。
最愛の娘を失ってからも、まだ音楽を聞いて酒を飲む夫を心なしか軽蔑している様子も窺える。
マリアが子羊アダを我が子の様に可愛がり始めても、イングヴァルは何も言わず、妻の好きな様にさせている。

しかし、イングヴァルは、子羊のアダを育てながらも
娘アダを泣きながら探し回る夢を見続けている。
トラクターを走らせながら、込み上げてきた嗚咽は
妻の倒錯した愛着を受け入れなければならない苦しみか
本当の娘を忘れたくない悲しみからか?

しかし、自分の不注意で、子羊アダが行方不明になった時に真っ先に「川を見てくる」と言ったのはイングヴァル。
もしかして娘アダは川の事故で亡くなったのだろうか?

親羊に連れ去られそうになった責任を感じたのか、愛する妻の行動を見守るうちに次第にイングヴァルも子羊アダに愛着が湧いていく。

ついには弟ペートゥルが異議を唱えても「幸せを壊すな」と黙らせる。

しかしその幸せは「妻」のものか
それとも子羊「アダ」のものなのか?

罪の意識を持っていたのはイングヴァルだけではない。
マリアも、子羊を探しに来る親羊を、妻は銃殺し、土に埋めてしまう。

殺された羊の耳にぶら下がっていたナンバータグは3115

旧約聖書 詩篇 31章15節
『わたしの時はあなたのみ手にあります。わたしをわたしの敵の手と、わたしを責め立てる者から救い出してください。』


「わたし」とは、産みの親である羊か、育てている羊飼いの妻か?
「あなた」とは誰なのか?

「敵」とは何か?
「責め立てる者」とは?

そして「救い」とは?


イングヴァルの弟ペートゥルもまた子羊アダに愛着が湧いていく。

ペートゥルは「十二使徒」の一人であるペトロの暗喩だろう。
子羊アダを連れて湖に釣りに出かけるシーンがある。
使徒ペトロもまた湖で漁をする漁師であった。

マリアはアダの存在によって、過去に犯した罪を繰り返すことは思いとどまる。
ペートゥルに誘われても脅されても、今の幸せを維持しようと必死に見える。
かつて演奏していたであろうピアノをまた弾き始めるが
その演奏は「過去の自分のスキル」であるはずだが
それによってマリアが想起するのは一体何なのだろうか?

物語冒頭の「理論上だけで存在するタイムマシンで過去にだけ戻りたい」という
思いが、このピアノ演奏に込められていないだろうか?
その「戻りたい過去」とは、アダが生きていた時なのか?それとももっと以前の「結婚さえしていない自由な自分」なのか?

そして「アダ」という名前の子。
アダとはヘブライ語で「メシア(救世主)が通る」という意味があるという。

しかし、救世主というのは、世の中の迷える子羊を導きはするが
自分は犠牲になる立場である。

アダによって「かりそめの幸せ」を得たマリアとイングヴァル

それを齎したアダ本人は

思いも寄らない「ある者」が

救うのか?

それとも・・・?


※考察雑記

なぜイングヴァルだけラムマンに殺されたのか?
…イングヴァルは本当の意味で子羊アダを愛していなかったのではないだろうか
マリアが幸せなら自分も許容しよう、と自分に言い聞かせていたのでは?
マリアが羊の世話をしていてもイングヴァルは昼寝をいていたり、弟の帰還を不審がるマリアを適当に受け流したり、大事なアダをソファで寝かし、戸を開けたまま大工仕事に耽って親羊の侵入を許してしまったりしている。
心の底では「これは娘ではない」という抵抗がずっとあって、それをラムマンに見透かされ、親として不適格だという判断をされたのではないか?
撃ち殺される間際のアダとの会話
「山に向かって進めば家」
「霧が深い時は川に沿って歩けばいい」
と言っている。

本当の娘のアダが川に落ちて死んでいるとしたら
子羊アダを本当に娘として可愛がっているならば
「川に沿って進め」なんて
また同じ過ちを繰り返す危険のあるアドバイスをするだろうか?

アダを連れ去られ、夫も殺され、義弟も追い出してしまったマリア
もう彼女を繋ぎ止めるものは何も残っていない。

本当の「迷える子羊」になったのは、マリア本人なのだろう。

いや、罪を背負って生きるのであれば
むしろ山羊の方だろうか。





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