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カード・カウンターのlentoのレビュー・感想・評価

カード・カウンター(2021年製作の映画)
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いけないと思うくらいに、今の心情にぴたりとはまる映画だった。その時々の心情に寄り添ってくれる作品とは、その時々に出会っても、ぴたりと一致することは稀なように思う。

中年から初老、もしくは老齢を生きる男と、若い青年との交流は、感動名作の1つの定石のようになっているものの、それらになぜ感動するのかといえば、きっと不可能性による。その思いなら、僕たちはささやかに持っている。しかし、そのように動いたことは一度もない。

基本的に、年齢を重ねた人は、過去の自分への苛立ちを転嫁するように、若い人を憎んでおり、若い人もまた、何者でもない自分を担保するために、年齢を重ねた人を軽視している。もしも好意を寄せることがあっても、どこか都合の良さからそうしているに過ぎず、他者の他者性に自己を開いていく経路をとらない。SNS上のコメントが、ほとんどこの心情で交わされているように。

いっぽう無償性という軽薄な概念にしても、世迷言(よまいごと)のようなものであり、人は原理的に自己愛を離れることはできない。離れられるものではなく、たぶん離れてもいけない。煩悩は量と質が問われているのであり、いっさいを手放した状態は、おそらく死を意味する。

問題なのは、その自己愛の経路であり、開き方にある。真摯に作られた映画は、名作・佳作・駄作を問わず、その経路に嘘がない。



この『カード・カウンター』の主人公が名乗るウィリアム・テル(オスカー・アイザック)という偽名は、弓矢の名人として有名なウィリアム・テル伝説を思わせ、息子との深い絆(きずな)や、圧政への抵抗といった象徴性を宿している。

弓矢はカードであり、息子はかつての同僚の息子であり、圧政は映画の進行と共に明らかにされる。また、それらを縦糸のモチーフとするなら、横糸には復讐と贖罪のモチーフがあった。

そのため、この映画に描かれる擬似親子関係は、復讐(息子)と贖罪(親)とによって結ばれ、それによって解(ほど)かれていくことになる。今の僕の心情にぴたりとはまったのは、この結ばれ方と解かれ方が、身に迫ってきたことによる。

復讐にせよ、贖罪にせよ、いずれも自己愛として発露されている。

息子のとらわれた復讐は自己愛の間違えた経路であり、もしも正しい経路をとるなら、自らの人生を豊かに生きることへ向かわなければならない。いっぽう親の示した贖罪という自己愛は、その正しさへと導こうとするものだった。

しかし、それは座礁する。そして、親も復讐へと向かった。

もしもこの映画が、カード・ギャンブルというモチーフではなく、他のモチーフによって語られ、ラストが息子の旅立ちで終わっていたなら、名作になったかはさておき、感動名作と同じ軌跡を描いていただろうと思う。

けれど、劇中で「ティルト」(ギャンブルで合理的な判断ができなくなること)という言葉が印象的に用いられていたように、親もティルトしてしまう。そして、監獄に戻る。

そうした意味で、ここにはいっさいの嘘がない。

また、復讐は、反転してみせれば、世間一般でいう愛(のようなもの)になる。しかし、復讐にせよ、愛のようなものにせよ、押し寄せる感情に絡めとられた自己愛は、ティルト状態に陥り、他者を他者として理解することができない。

そのことを、他者の都合と自身の都合とを、冷静に見極めなければ勝利できないカード・ゲームによって、この映画は物語ろうとした。今の心情に恐ろしくはまったのは、この軌跡であり、それをジッと見つめるオスカー・アイザックの演技が素晴らしかった。

そうは問屋は卸(おろ)してくれない。
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