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太陽がいっぱいのkuuのレビュー・感想・評価

太陽がいっぱい(1960年製作の映画)
3.7
『太陽がいっぱい』
原題Plein soleil.
映倫区分G.
製作年1960年。日本初公開1960年。
上映時間118分。

フランスの巨匠ルネ・クレマンが監督を務め、パトリシア・ハイスミスの小説を映画化したフランス・イタリア合作サスペンス作品。
余談ながら原作者のパトリシア・ハイスミスは
『目に美しく、知性に訴えるものがある』と評価し、トム・リプリーを演じたアラン・ドロンの演技に満足の意を表した。
せやけど、映画の結末には失望して、『いわゆる公衆道徳にたいするひどい譲歩』と評したそうです。

イタリアに金持ちの道楽息子を連れ戻そうとやって来た貧しい青年が、激情にかられてある犯罪を思い立つ姿を甘美な調べに乗せて映し出す。
本作品でアラン・ドロンは鋭利な刃物のような危うい美貌と抜群の演技力を披露。
映画音楽の名匠ニーノ・ロータの音楽によって際立つ、凶暴なまでの青春の狂気に惑わされる。

貧しい家庭に育ったアメリカ人青年トム(アラン・ドロン)は、息子のフィリップ(モーリス・ロネ)を帰国させてほしいとフィリップの父親から依頼されイタリアへと向かう。
美しい恋人マルジュ(マリー・ラフォレ、彼女のデビュー)も手にした富豪の息子フィリップは親の金で遊び回り、全くアメリカに戻る気はなかった。
一方、彼から邪険に扱われるトムの心に、やがて小さな殺意が芽生え。。。

今作品は、個人的に奇妙なロマンスが滲み出る犯罪ドラマかなぁと感じました。 
物語は、不安と邪悪なゲームに包まれてた。
1955年に発表されたパトリシア・ハイスミスの小説『リプリー氏の才能 - Il talento di Mr. Ripley』を原作としてる。
典型的なメロドラマが、興味をそそる形で知的スリラーに早変わりする。
ホモセクシャルな側面は、ある種の潜在的な嫉妬心で消されているかな。
クレマン監督は、晴れやかな風景の中に、陰鬱な筋書きを描いてて、
心理的、
執着的な瞬間が、
冷血な殺人者の才能を呼び覚ますのか良く伝わった。
殺人鬼の楽観主義は、被害者の不安定なアイデンティティに基づくものなんかな。
トム・リプリーを演じたアラン・ドロンはほんま巧みな演技を披露していた。
トムは知的で、活発で、魅惑的な社会病質者、彼は、ある意味、被害者のアイデンティティと豊かさの間で葛藤している。
しかし、彼は人生を盗もうとし、その執念を深く信じている。
彼の即興はただただ見事であるとしか表現しにくい。
ドロン氏はこの映画の中で非常に魅力的な敵役である。
フィリップ・グランリーフ役のモーリス・ロネは、甘やかされ、満たされない、不幸な青年で、彼とトムの性格のある種のコントラストは、緊張感を高めるために不可欠なんやろな。
マルジュ・デュヴァル役のマリー・ラフォレは美しいフィリップの婚約者で、トムの犯罪の渦に巻き込まれる。 今作品は、一般的な道徳観の一部となった混乱したラスト以外にも、非常に興味深く、知的な映画でした。
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