シネマJACKすぎうら

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実のシネマJACKすぎうらのレビュー・感想・評価

4.5
ドキュメンタリーといえども、商業映画として公開される作品には劇作同様に”何か”意図された物語性があるものだ。
そして、ここで描かれるものは、二人の主人公”三島由紀夫”と”木村修”の奇妙な友情物語だったのではないかと解釈をしている。

既成のステレオタイプ的なイデオロギーの枠組みの中で「右翼」「左翼」などと称され相反する陣営にカゴライズされた三島由紀夫(楯の会)と東大全共闘。実は彼らが共通のゴールに向けて闘っていたことが、この物語を通して明かにされている。

面白いのは、この両陣営は双方ともに(当時の社会情勢からして)政治活動的な崖っぷちに立たされていたという点だ。その危機感や焦燥感を”期せずして”共有していたからこそ、この実にスリリングな(←少なくとも開催前には周囲からそう思われていた)イベントは実現したに他ならない。

そして蓋を開けてみれば、大方の予想に反して実に紳士的、抑制的で和やかな空気の中で、この討論は展開された。(三島の機知に富んだジョークも相まって)900番教室にいた当時の観衆(?)は、何か演劇か映画を観るような気分でこの討論を”鑑賞する”のが正しいのでは?などと感じたのではないだろうか。
そして、そんな空気感の中で東大全共闘は社会の表舞台からフェードアウトしていく。言い換えれば約2年間にわたる熱情を観念という名の箱に封じ込めて。。

ところが、三島由紀夫は全く異なる道を選択する。この世界中に報道された市ヶ谷での決起に、最も打ちのめされたのは、かの討論に登壇した全共闘の面々ではなかったのだろうか。
三島はあの実直で誠実な語り口と同様に、その観念と行動を壮絶なまでに直結させた。

終盤、木村修氏が三島に電話をかける回想のクダリに泣けてしまった。彼は奥様の一言で”命拾いをした”とも言えるし、”究極の生き様を選ぶ機会を奪われた”とも言える。
更にそれは、映画で用いられた引用とはまた別の側面で、三島の決意が既に固まっていたことの証になっているのではないかと感じた。

内田樹氏がインタビューの中で、「三島は1000人を(論破ではなく)説得に来ていた」とコメントする場面がある。三島の高潔な人間性や当時の想いに触れる上で魅惑的な言葉だが、実のところ(三島は)”木村氏の一本釣り”を意図していたのではないかと、私は勘ぐっている。
当時の関係者(全共闘サイド)の、”天皇とは何か”という問いに対するそれぞれの応えを聴いていて、、ぼんやりそう考えたのだ。

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”900番教室の和やかな空気感の中で自壊していった熱情”
https://youtu.be/ht6TiVxitrQ