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三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実のkuuのレビュー・感想・評価

2.5
『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』
製作年2020年製。上映時間108分。

東大全共闘をはじめとする1000人を超える学生が集まる討論会が69年に行われた。
文学者・三島由紀夫は単身で討論会に臨み、2時間半にわたり学生たちと議論を戦わせた。伝説とも言われる「三島由紀夫 VS 東大全共闘」のフィルム原盤をリストアした映像を中心に当時の関係者や現代の識者たちの証言とともに構成し、討論会の全貌、そして三島の人物像を検証していく。。。

どこやったか忘れましたが、この作品で三島と全共闘の構図を示したのを目にした。
主義主張自体は
右翼→←左翼
で正反対だが、
右翼⇔左翼

と示していたが何を知り書いたのか意味が分からない。

小生は思うに書くとすれば、

三島 →自分のみ描く理想の世界『美』。
理念対立 → 🔃  →   より良い社会。
全共闘→自分たちの描く理想の日本。

三島と全共闘はお互いが持つ未来の、より良い社会を目指す過程において、お互いに利害関係が生じる可能性はあったんと思います。
三島由紀夫には自分のみが描く理想の世界。
全共闘は自分たちの描く理想の日本。
その先には、より良い社会がある点では両者共に同じ理想と云える。
ドキュメンタリーという言葉は、その語源である『document』から類推されるように、出来事のありのままの記録という意味合いを付与されている。
でも、『客観性』と『主観性』の間で揺れ動いてる現実もあるし、評価は違いが生じますが、
今作品は私的ながら、三島肯定で進行していて公平性が欠け嫌な感じがしました。
全共闘が突き進んだ理由を多少は述べては居るが、それを見て単純に三島さんと云えない自分が居ます。
ですので、多少過激にになりますし、小生の駄文で気分を害されましたらお許し頂きたいです。
また、全共闘の行動を全面的に肯定したものではなく同情に値することを述べたものなのでどうか文章より意中お汲み取りいただければ幸いです。

⚠️ネタバレになりますのでよろしくお願いいたします

三島の作品『潮騒』や『金閣寺』など数多くの傑作を残した文学者としての三島由紀夫を小生は尊敬してます。
しかし、言動に対して諸手をあげて褒め称えることは未だに出来ないし、逆に全共闘の人たちも然り。
小生も三島の政治的人心掌握やユーモアセンスも認める。
それは当然の事でもある。
1000人居ようが居まいが討論で言葉を発してるのは三島に対して全共闘も数人。
また、国会と同じ様に事前にこの質疑内容に対しては全共闘から三島側にはある程度通達されていたので、三島だけじゃなく彼のブレーンを含めて、質疑に対してのアプローチは協議した事は実際にあった。
言語を自在に操る文化人と理系の大学生とでは、だれが見ても明らかな討論に映るはず。
たしかに三島は彼らの言葉を聴いていたかもしれないが、『きく』には
傾聴
聴く
聞く
とある。
三島はあくまでも聞く、もしくは聴くと云うスタンスを変えていないと小生は思う。
なぜなら、武士道をライフスタイルに取り入れ実践していた三島なら、武士道精神の云うとこの、
先学は後学を導く。
後学は先学を追う 。 
と云う理念が三島にはこの時には感じられない。(理想は共に同じだと感じたからこの討議会に来たなら先学は三島)
書き方が悪いかも知れないが、自決を選ばずに5年後10年後経験を積んだ全共闘の彼らとの討論を場を持ってさえいない。
三島が仮に自分のみが描く世界の装置として彼らとの討論の場を持ったんなら、無いとは信じたいが。無礼です。
全共闘の人たちの無礼な態度は目に余るものがあるが、
赤ちゃんを抱き議論する、これは殺気立つであろう壇上を和やかにする為に連れてきた(と芥正彦は後に語ってる)
赤ちゃんを装置のように扱う彼に対しては冷めた目でしかみれないが、装置としては確り機能していたから互いに同じ様な事をしてるなら無礼さに複雑です。
全共闘は直接的、
三島の方が間接的な無礼に値する。
三島が東大全共闘の若者たちの前の壇上に立った1969年5月時点では、三島は
『いずれ楯の会が蹶起するときには、自衛隊も続く』
という観測をもっていたのは盾の会の証言もあり事実ある。
東大に彼が乗り込んだのは論争するためではなく、共にクーデタに立ち上がる革命戦士をヘッドハンティングに行ったと推測する研究者もいる。
小生は三島にはもう少し加えた観点があったのではないかと考える。
と云うのも、幕末の薩長同盟のように、盾の会と全共闘の同盟により自衛隊と民衆を含めた革命を決起すると考えが三島にはあったんちゃうかと。
他方、1960年代末の東大をはじめとする国立大学で反乱の先頭に立ったんが、先にも書いた『理系』の学生たち。
なぜ『理系』の学生が?
長崎浩(物理学)から山本義隆(物理学)や最首悟(生物学)までを含め、60年代の学生運動のリーダーには理学系の学生が少なくない。
1969年に 『東大紛争』が終息した後も学内の地震研究所と応用微生物研究所では紛争が長くつづいた。
紛争当時、すでに博士課程院生だった山本義隆は、周囲から素粒子物理学の次世代ホープと目されていた一人です。
そないな理学系トップ層が闘争の先頭に立った背景には、最首は60年代科学技術振興策によって東大理科一類の入学定員が増加されて、科学技術は否応なく軍事とも結びついていたとしてる。
物理学、とりわけ素粒子物理は、原子力とも結びつきの深い分野やし、つまり、60年代を通じた科学技術振興政策、とりわけ原子力推進政策と、そうした動きに数年遅れて活発化する主に国立大学での学生闘争には、構造的な結びつきがあったんちゃうかな。
そうやとしたら、アメリカの世界的核戦略と日本の60年代が、退っ引きならない深さで結びついていたことになる。
山本ら東大全共闘が主張した『自己否定』とは何やったのか?
三島由紀夫は『愛』の値踏みを嫌い、美に故にか『恋』ならば受け入れた。
山本義隆は
『自己否定に自己否定を重ねて最後にただの人間』になろうとした(弁証法)。
ほんで何よりも、そないな
自覚した人間になって、その後あらためて、やはり物理学徒として生きてゆきたいとと考えてた。
せやけど、『自覚した物理学徒』て、どないな存在なんか。
三島ならば、『天皇への恋に生きよ』と云うかもしれへんが、
学生運動家たちはそんな無理心中をする気はさらさらない。
そして、今作品の三島由紀夫と東大全共闘の対論になるが、そこでの両者の対立点となったんが、
時間性についての考え方の違い、
すなわち
『現在を過去の集積』とみる三島と、『未来への※投企』とみる全共闘の違いやった。
(※投企とはハイデッガーによって提唱された哲学の概念。 被投という形で生を受けた人間は、常に自己の可能性に向かって存在している。 これが投企である。人間というもののあり方というのは、自分の存在を発見、創造するということである。Wikipediaより)
三島は現在が過去の集積でしかあり得へんとするから、
『天皇』をその過去の虚焦点として希求していく。
全共闘は、過去の延長としての現在の『自己』を否定し、未来へ投企する。
このような対立に鑑みんなら、全共闘の『自己否定』は、過去から現在への拘束に対する未来への脱出の試みということになる。
せやけど、本当にそうかなぁ。
この問いを突き詰めることてのは、同じ60年代末の『紛争』でも、日大全共闘と東大全共闘の微妙で構造的な立場の違いに目を向けることになる。
一方の日本大学は高度成長と共に事業規模拡大に走って、総学生数10万人以上の巨大教育産業となっとった。
その会頭の古田重二にとって大学は、教育や学問の場より経営体を推し進めた営利事業やった。
秋田明大をリーダーとした日大闘争は、巨額の使途不明金が明るみに出た問題をトリガーにし、この古田体制に敢然と反乱の狼煙をあげた。
他方、医学部卒業生の無給医局員問題に端を発した東大闘争の要因は、大学の研究体制と深く関係していた。
紛争は、医学部内で執行部と医局員や医学部生との対立が激化し、医学部教授会が学生に退学等の厳しい処分を決定したことから本格化する。
これに反発した医学部全共闘は、大学本部が置かれていた安田講堂を占拠してしまう。
これに大河内一男総長が強く反発し、早々と機動隊導入を要請した。
この機動隊導入は学内に大きな波紋を呼び、学生たちの怒りを一気に爆発させた。
各学部の学生自治会は次々に無期限ストライキに入り、7月2日には安田講堂が学生たちに再び占拠。
二度目の占拠とともに山本義隆を議長とする東大全共闘が結成され、11月の大河内総長辞任、翌年1月の安田講堂攻防戦へと進んでいく。
つまり、日大で学生反乱を生じさせた要因は、戦後の私立大学が向かった利益第一主義で、過度の学生増による教育の劣化やった。
他方、東大で学生反乱を拡大させた要因は、とりわけ理工系の研究教育体制、その教授中心の権威主義体制やった。
だからこそ、この後者の東大闘争が向かったのは、大学ちゅう場の『自己否定』的改革。
せや、そないな『自己否定』をさらに突き詰めるなら、戦後日本の科学技術推進体制、それを背景から支えてきた日米の軍事技術と産業システムの抱擁に突き当たる。
個々の学生の学習環境が劣悪だという私立大学とも共有された問題に加え、中核的国立大学の場合、学生たちの問いは、どないしても国家の科学技術政策に向かわざるを得ない。
はしょって書きましたが、そないな背景に思想的には相反するが、三島は全共闘との連帯が可能だと三島の過度に楽観的な見通しだったと思います
三島は、日本国民を動員できるような大きな政治運動をやろうとする場合、日本人てのを一つにまとめて心に火をつけるような
『政治的幻想』が必要だと感じていた。
それは『天皇』以外にはないと三島は思っていた。
日本人をして小市民的限界を超えた政治的狂気に駆り立てることのできる『天皇』ちゅうイデオロギー的な発火点になり得るてのを、三島は戦前の経験を通して知っていた。
それは日本国憲法下でも変わらないと三島は考えてた。
学生たちも、本気でこの社会を根本から覆す気やったら
『全国民を動員できるような政治的幻想』 
は何かという問いに突き当たる。
三島由紀夫はそう考えた。
その上で、学生たちと手を結ぶことができるんやと。 
全共闘と結び、自衛隊も立つなら、日本社会に激甚な衝撃を与えることができる。
それがこの時点での三島由紀夫の過度に楽観的な見通しだったんちゃうかな。
実際、三島は討論会で『天皇』について
学生の一人から
『擁立された天皇、政治的に利用される天皇の存在とは醜いものではないか』と三島は問われた答えに、
『しかし、そういう革命的なことをできる天皇だってあり得るんですよ、今の天皇はそうではないけれども。天皇というものはそういうものを中にもっているものだということを、僕は度々書いているんだなあ。その点はあくまでも見解の相違だ。こんな事を言うと、あげ足をとられるから言いたくないのだけれども、ひとつは個人的な感想を聞いてください。というのはだね、ぼくらは戦争中に生まれた人間でね、こういうところに陛下が坐っておられて、3時間全然微動だにしない姿を見ている。とにかく3時間、木像のごとく全然微動もしない、卒業式で。そういう天皇から私は時計をもらった。そういう個人的な恩顧があるんだな。こんなこと云いたくないよ、おれは(笑)。云いたくないけれどね、人間の個人的な歴史の中でそんなことがあるんだ。そしてそれが、どうしても俺の中で否定できないのだ。それはとてもご立派だった、そのときの天皇は。それが今は敗戦で呼び出されてからなかなかそういうところに戻られないけどもね。僕の中でそういう原イメージがあることはある。』
この討論会での三島は
『本質的に知性の人』であり、
『感性に対しては異常なまでに嫌悪感を示している』と
保阪正康は『憂国の論理』で記していたし、小生もそう思う。
しかし、『天皇』に関して三島の言葉は、決して『知性』的じゃなく、極めて感性的な個人体験である。
そこには三島独特の『天皇論』があったんやろうと推測できる。
日本国憲法では『天皇』てのは国民統合の象徴で、三島にとっては同時に日本文化の精髄の象徴でもあった。
三島は、自身の半身は2000年に及ぶ日本列島の歴史によって培われていて、天皇制はその歴史の最深部から生命を汲み出して生きている。
せやし、日本人的エートス(出発点)の最も深く豊かなものと天皇制は不可分であると。
三島はそない考えていたのだと思う。
日本文化に、死者たちに多くを負っているという自覚があったからこそ、三島は『日本人』『天皇』ちゅうのに拘ったと思う。
それは『文化防衛論』(1968)などの作品にも反映されたんちゃうかな。
三島が感性的な『天皇の原体験』をオープンにしたことは衝撃的を与えた。
もしかしたら、矛盾を学生側は突破口にして三島を論破できたかもしれへん。
しかし実際は、三島に対する学生たちの答えは。
『安田講堂へ閉じこもる。そこでみんなが天皇と言おうが、言うまいが関係がない。三島氏が天皇と言おうが言うまいが、別に僕たちと共にゲバ棒を持って、現実に僕たちの側に存在する関係性、すなわち国家を廃絶すべきではないか。』と。
これに三島は、『天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないから、いつまでたっても殺す殺すといってるだけのこと』と応じた。
この時に三島が『学生側の甘え』を見抜いたのやろうと思う。
『憂国の論理』じゃ
学生たちはゲバ棒を持ち、権力に向かって暴力行動を挑む。
だけどそれはなぜか。
それを充分論理化出来ないことに彼らは苛立った。
そのいらだちを埋めるのは、量の拡大と、彼らの対極に侘立するものを自らの陣営に引き入れて、その論理を政治力学の中に吸収してしまうこと。
だが、いずれにしてもそれは弱き者の甘えでしかない。三島は、討論をつうじてそのことを知ったのだ。
と述べている。
小生も少なからず改めて今作品をみて感じた。
三島は討論会の最後に次のように云い残して、駒場900番教室を去った。
『私は諸君の熱情は信じます。他のものは一切信じないとしても、これだけは信じるということを分かっていただきたい。』
なら、

三島に問たい。


なぜ生を全うしなかったんか。
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