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この世界に残されてのlentoのレビュー・感想・評価

この世界に残されて(2019年製作の映画)
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作品としての語り(脚本・演出・撮影)と女優の魅力とが溶け合った、映画の幸福な現象のうちの1つだろうと思う。なんて魅力的な女優なんだろうと、ため息が出た。

少女から女に移り変わったばかりのあの感覚(言動、仕草、表情、思い、考え)が、こんなにも鮮やかに表れている。その鮮やかさは、ある年齢以上の男にしか見えない鮮やかさなのかもしれない。少し目眩(めまい)がするような思いを抱えながら見つめていた。

16歳の少女(もしくは女)と42歳の男。この26歳という年齢差は、男女関係の入り口としては一般的に思われるほど大きくはないものの、しかし関係を深めていくほどにやはり決定的になってしまうことを、僕はひそやかな経験として知っている。そのためクララ(アビゲール・セーケ)とアルド(カーロイ・ハイデュク)の関係は、既視感の連続だった。

映画の宣伝文句としては、「ナチス・ドイツによって約56万人ものユダヤ人が殺害されたと言われるハンガリー」とあるいっぽう、本作の優れた点は、そうした凄惨な歴史を背景としながらも、生還した被害者2人のミクロな視座で描き出したことにあるように思う。カズオ・イシグロを原作とする『わたしを離さないで』(マーク・ロマネク監督, 2010年)や『日の名残り』(ジェームズ・アイヴォリー監督, 1993年)と同様に。

つまり、戦禍による(もしくは巨大な暴力による)傷や喪失を背景としながらも、僕たち1人1人がそれぞれに抱える傷や喪失と基軸を共にする力が宿っており、結果としてナイーブな心の震えや、僕たちが僕たちを生きるしかないことの原理に触れることになった。また、ホロコースト(ナチズム)と全体主義による監視社会(スターリニズム)の暴力は、1948年のハンガリーという時間と空間を超えて、現在の日本のものとしても身に迫ってくるところがある。

いつそれが起きてもおかしくはない。また現象の裏側を追ってみれば、どの時代のどの場所でも、それは起きていると言えるかもしれない。監視と暴力。傷と喪失と無力感。だからこそ僕たちは、静かに、それでも精一杯の声を出そうとする(うまく出ないことがほとんどであっても)。

42歳の男にとって、女になったばかりの16歳の輝きが、どれほどのものだったのかが、僕にはよく分かる。現状への物足りなさ(それは大叔母に向けられる)、知性への憧れ(承認され愛されたい)、触れるものすべてへの嫌悪感(それでもお腹が空けばお腹は鳴る)、孤独と気難しさ(大人になっていなからこそ口にされる大人びた口調)、どれほど憂いに覆われても若さはそれ自身で生きようとしていることを。

そして42歳の男にとって、大人になりきっていない16歳の女の思いは、彼女が思うようには決して男の核心に触れないことも。彼女が一緒にいたいと思うほどに、男の孤独は深まっていくことを。

だからこの映画のラストシーンのように、あなたが晴れやかな表情で列車に乗っていることを願っています。僕は僕の抜き差しならない現実を、なんとか生き延びていくしかないことに、あなたが何一つとして関心を持っていないとしても。また、だからこそ。

★ハンガリー
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