中嶋駿介監督じきじきにフォローいただきましたので、返礼として謹んでレビューを投稿させていただきます。
SFの重要な存在意義として、「思考実験」の役割があります。現実と異なる「if」の世界を提示することによって問題を提起し、受け手の思考や感覚を刺戟するという働き。
鑑賞後に監督のnoteも拝見しましたが、本作もまさにそれを企図して描かれたもの。
余談ですが、監督。noteに書かれたメッセージは、#MeToo運動を連想することも含めて、全部映画本篇だけでもしっかり伝わってきましたよ。映画そのものが補足説明の不要なメッセージにきちんとなっています。素晴らしいことだと思います。
さて、本作は広義にはディストピアものと言えます。
しかし、本作で非常に面白いのは、舞台をディストピアたらしめている「SP法」を単純に「悪法」と言い切ってしまっていいのかどうか、困惑してしまうところ。観客を悩ましい気分にさせる実に見事な舞台立てとなっているのです。
ディストピアものの一般的な構図では、「システム=悪」、「システム破りをする主人公=善」の対立が描かれます。
オーウェルの「ビッグブラザー」の例のやつでも、ブラッドベリ×トリュフォーの焚書する例のやつでも、遺伝子操作のあれでも、トム兄さん×スピ師匠のあれでも、ルーカスの出世作のあれでも、普通はそうなんです。
本作は、そこがそれほど単純ではない。
本作における主人公の「システム破り」は、「痛い思いはしたくないけれど、性交はしたい」という非常に独善的なチート行為なんですよね。
そこが本作の最重要ポイントであり、最大のツイストである。
ディストピアものの変化球では過去にバージェス×キューブリックのルドヴィゴ療法のがありますが、あの暴力まみれの映画ですら、「アレックスの高潔な魂はシステムでも奪えない」と、やはり「主人公=善」論に帰着して終わる。
その意味で、本作の構造は非常に稀有で、「これまでになかった新しい物語構造を見たい」と常々思っている私などは強く惹かれました。
ちなみに、本作が描く「SP法」から私は民俗学の「初夜権」を連想しました。
「SP法」は、その名が示す通り、「女性の破瓜の痛みを男性も共有する」という意図で、「初夜権」は不浄なものである(と古来されていた)破瓜の出血を、聖職者が最初に性交することで、ほかの男性の肩代わりしてやるという、正反対と言ってもいいものではありますが、どちらも呪術的な「通過儀礼」として捉えることができるのが、興味深かったです。
映画の表現技法として素晴らしいのは、まずは何をおいても千羽鶴というアイテムでしょうか。
なんたって、ファーストショットが、千羽鶴のアップからスタートするカメラ移動だもんね。
あ、じゃ先にシーン1全体に言及しておきますね。
ここはずっと被写界深度の浅い(=周りが見えない)、クローズドな「二人の世界」を描く。
カット6でようやく引きの絵になって、場所の説明が入るんだけれど、その後も人物のアップが続く。説明ショットの後は、基本的に二人が同じフレームに入ることがなくなるのも良いですね。
セリフじゃなく「画」が二人の関係性を暗示してる。
女の子が窓際という「明るい場所」に移動し、カーテンを開けることで、さらに舞台は明るくなり、それは男の子のいる場所にまで届く。
この「明るさ」は千羽鶴が象徴するものと同じく「純粋性」でしょうか。
おっと、まだ書いてなかったんだ。
はい。千羽鶴を私は「純粋性」だと解釈しましたです。
恋愛だけじゃなくって、もっと普遍的な心の「純粋性」ね。
これが男の子には欠けてたんだよな。うん。
それから、何度か登場する「橋」のショットがいいですね。
物語に登場する「橋」の両方には、常に異なる世界があるのさ。橋は異世界の接合点の象徴なんですね。
本作の「橋」は「性交ができる大人の世界」と「まだ性交できない子供の世界」を象徴しているのでしょうか。
おっと。
気がつけば、いつものように思いつくままにだらだら書いてしまった。
これ、確実に中嶋駿介監督自身がお読みになるんだよなあ。
何だか恥ずかしいなあ。
おれ、タランティーノでもポランスキーでも、まあ、誰の作品でもいいんだけれど、レビュー書くとき、本人が読むことなんて想定してないもんなあ(←読まれるわけねえだろ!)
どうしようかなあ。投稿止めようかなあ。
ええい。ま、いいや! ポチリますね、監督!