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ラ・ジュテのkuuのレビュー・感想・評価

ラ・ジュテ(1962年製作の映画)
3.8
『ラ・ジュテ』
原題 La Jetee
製作年 1958年。上映時間 29分。
近未来、廃墟のパリを舞台に少年期の記憶に取り憑かれた男の時間と記憶をめぐる、静止した膨大なモノクロ写真の連続(通常どおり撮影したフィルムをストップモーション処理している)で構成された、“フォトロマン”と称される短編。
95年、のテリー・ギリアム監督の『12モンキーズ』は本作を原案にしているのは結構知られてるかな。

今作品はセリフは一切なく、モノクロで撮影されたフィルムから切り取られた静止画を、まるで紙芝居さながらのに綴られている。
それを“フォトロマン”とよぶそうで、そないな手法で作られた映像にナレーションを被せたわずか約29分の短編作品。
彼女に会うために繰り返しも時間を遡る男、突然現れては消える男をなんとか受け入れる女、刹那の逢瀬が積み重なる過程は純粋で美しい。
国立自然史博物館に展示されている夥しい数の剥製に目を奪われたりしますが、一瞬だけ現れるカットに思わず息を飲む。
自在に時間を旅することが出来るようになった男の決意とその運命は確かに以降のタイムリープSFの根幹となっていることが見てとれ、今作品を起稿したと明記した、先にも書いた『12モンキーズ』を筆頭に『時をかける少女』、『ターミネーター』、『インセプション』、『テネット』、『ルーパー』、『プリデスティネーション』、『ハッピー・デス・デイ』シリーズと。
愛する人に会いたい、ただそれだけのために命を懸けるその純粋さが見えたとき感動があふれた。

今作品をコネ栗回して徒然に。
※なんか小難しくなりましたし、纏まりが悪い文章ですので、ねちっこいの苦手な方はすっ飛ばしてください🙇。

ホリス・フランプトンの『ノスタルジア』(1971年 ‧ 短編映画 ‧ 38分)と『ポエティック・ジャスティス』(1972)・短編・31分) が静止画を使って映画の時間性の問題を考察する9年前に、クリス・マルケルは今作品をほとんど静止画だけで今作品を構成した。
両作品とも、時間、記憶、知覚というテーマを共有しているけど、『ノスタルジア』が構成を重視して物語を放棄したのとは異なり、『ラ・ジェティ』は手の込んだSF物語を描いており、最終的には映画的な動きの錯覚を扱っている。 
結局のところ、映画の動きは人間の知覚の頼りなさに依存しているだけであり、現実の動きはアインシュタインの理論が主張するように相対的なものと云える。
今作品は実験的なタイムトラベル映画やけど、時間性と動きは静止画によって視覚的に対立している。
また、映画内の登場人物と映画の観客の両方が知覚する時間経過と動きの錯覚を強調している。
今作品の登場人物が時間に囚われているように観客も映像の静止に囚われている。
ジョニー・デップが実験的ドキュメンタリー映画『Stuff』(1992年)でサイケデリックにカメラを動かしたのとは異なり、この映画の撮影は静止している。 
今作品のオープニングショットは、時間と動きの錯覚というテーマを確立している。
空港の静止画で構成されているけど、高速ズームアウトのため、シーンは生きているように見え、時間の中で動いている。
ホリス・フランプトンの『ノスタルジア』が音と映像をシンクロさせ、両者が認識する時間性の不一致を生み出しているように。
その動きの感覚は、リアルな空港の音によって強調されていた。
破壊された建物のシークエンスでは、あるショットが動いているように見えるが、それは静止画の動きによる錯覚であることがわかる。
動きの錯覚は、主にズームインによって、映画中何度も繰り返される。
今作品は、主に編集によって移動と時間経過の感覚を実現している。
先にも書きましたが、テリー・ギリアム監督は、1995年の映画『12モンキーズ』を『ラ・ジェテ』を基に制作しました。 
彼が『ラ・ジェテ』の編集について語った言葉に、
"音は『ラ・ジェテ』において唯一、真に連続した要素である"と。
そのため、ギリアム監督が指摘したように、時間性とリズムの主な源となる。音はサウンドトラック、効果音、ナレーションの両方で登場する。
効果音は最小限であり、通常は空港の音や足音といった身近な概念を表している。
今作品の物語が過去から現在へと移り変わるとき、映像と音の編集によって精神的な連続性とリズムを作り出す。
サウンドトラックは、物語のシークエンス間の精神的な移行を形作る編集の枠組みとして機能する。
例えば、主人公が過去にいるシークエンスでは、ナレーションに合わせて音楽が流れる。
主人公が疲れ果てて倒れ込むと、女性の顔のショットが、研究室に戻った主人公の顔にオーバーラップする。
音楽はオーバーラップの瞬間に止まるが、科学者たちが『おそらく彼にもう1回注射を打つ』と主人公が過去に戻ったときに再び始まる。
次のシーンの冒頭では、女性の顔が再び映し出され、研究室にいる男性の顔から消えていくので、このシークエンスは視覚的な連続性を保っている。
このように、空間的・時間的な混乱や映像の静止にもかかわらず、このシークエンスは動きと時間経過の錯覚を保っている。
主人公が疲れ果てて研究室に戻る短いシーンでは、音楽が止まり、代わりにドイツ語を話す声がする。
これは実験について議論している科学者たちのようやけど、彼らの声はほとんど聞き取れず、理解できない。
しかしある時、ドイツ語の声がより大きく明瞭に話し、観客がその声を聞き、注意を払うことを意図しているのかもしれない。
原作のフランス語版にも、翻訳された英語版にも、このドイツ語文の訳はないけど、重要な意味があるよう。
調べてみたら、声の主はこう云ってるそうです。
"Die Hälfte von ihm ist hier, die andere Hälfte ist in die Vergangencheit."。
和訳では、
『彼の半分はここにいて、もう半分は過去にいる。』
ドイツ語の声はこの映画で唯一の直接話法であり、意図的に曖昧で聞き取りにくく、理解しにくい。
主人公も女性も直接的な言葉を発しないことで、観客は彼らが生気を失い、現在から遊離しているように感じる。
今作品の登場人物にも名前はない。
彼らは声もなく、生気のない、時間に凍りついた人物のように見える。
また、モノクロ写真が、生気のなさをさらに際立たせてた。
あるシーンでは、主人公が女性に話しかけている。
しかし、彼の話し声は彼の声でもなく、語り手が直接伝えるのでもない。
むしろ、ナレーターは主人公が "自分自身の言葉を聞いている "と云う。
このような間接的な受け止め方によって、主人公は自分自身の存在から距離を置き、まるで自分自身の現実を遠くから体験しているかのよう。
今作品の実写シークエンスは、ナレーターが主人公についてこう説明した後に出てくる。
『彼については、自分が彼女に向かって動いているのか、追い詰められているのか、作り話なのか、それとも夢を見ているだけなのか、彼にはわからない』と。
実写のシークエンスは、女性がまばたきをするという、見落としがちな微妙な動きで構成されている。
まばたきの直前には、ベッドで眠る女性の姿がゆっくりとしたオーバーラップで長く映し出される。
このオーバーラップは結構多く、女性が生きて動いているかのように見えることもある。
主人公が動いているのか、単に作り物なのか区別がつかないように、観客も女性が静止しているのか動いているのか区別がつかない。
また、今作品の"A Museum Filled with Ageless Animals"でのシークエンスは、おそらく今作品で最も重要なシーンと云えるかな。
動物の剥製は生気がなく、動かず、死んでいる。しかし、静止画の中で同じように麻痺しているように見える2人の主人公も同じ。
動きのなさは、彼らの死を意味する。
写真のレンズを通して見る限り、登場人物たちは自分たちが生きていると認識しているが、彼らの死はすでに起こっているか、時間の問題なんやと思う。
そのうちの1枚は、2人の主人公が身を乗り出しているところを捉えたもので、観客の視点からは、彼らが観察している4本足の動物の剥製とほとんど同じ位置に見える。
今作品は、子供の頃、自分の死に気づかないまま、自分の死を目の当たりにした男の物語である。
彼は(おそらくは)自分の人生を生きるが、自分の全生涯を彩った瞬間が自分の死の記憶であることに気づく。
哲学的に見れば、今作品は、運命的存在、必然性、そして決められた死についての実存主義的物語と思える。
そして、この考えを表現するのに、生気のない写真を使って、そのようにしか認識されない人生の物語を語る以上の方法があるんやろか。
もし主人公がタイムループの中に閉じ込められ、子供の頃の自分の死を見ているとしたら、自分が実際に存在していたと信じる理由は何やろう。
誰がどこで云ってたか忘れてしまったが、今作品について、写真と現実や生業との関係を考察している。

彼の混乱したポスト構造主義の声で、写真はそれ自体で『これは過去にあった』というラベルを持ち、写真が描写するものは何でも過去に起こったことを意味すると主張する。
実写映画は、観客の不信感を一時停止させ、アクションが現在起こっているように見せるために必要な資質を提供できるが、写真は必然的に過去に縛られる。
そのダイジェジスは『今、ここ』ではない。

アルバート・アインシュタインの相対性理論は、時間と運動は相対的であり、知覚に依存すると主張している。
相対性理論はまた、運動がそれ自体で、参照点なしに真空の中に現れることはないことを示唆しているのかもしれない。
今作品は、時間と運動は単に私たちの投影であり、自己欺瞞であるかもしれないと主張する。
ハイデガーってオッサンの著書『存在と時間』の中で、存在を "死に向かう存在 "と呼んだ。 
ハイデガーにとって、存在は必然的に死と結びついており、『死に向かっている』ことが存在の特徴になる。
ラ・ジェテも同じように死の必然性を描いている。
そして、時間性の混乱、永遠にとらえどころのない現在という瞬間、そして共有される時間の幻覚を最もよく要約しているのは、おそらくハイデガーかな。
時間性は、過去が現在になる過程で現在を作る未来として時間化する。
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