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異端の鳥のkuuのレビュー・感想・評価

異端の鳥(2019年製作の映画)
4.3
『異端の鳥』
原題 The Painted Bird.
映倫区分 R15+.
製作年 2019年。上映時間 169分。
ナチスのホロコーストから逃れるために田舎に疎開した少年が差別に抗いながら強く生き抜く姿と、ごく普通の人々が少年を徹底的に攻撃する姿を描き、第76回ベネチア国際映画祭でユニセフ賞を受賞した作品。そら話題になるわなぁ。
チェコ出身のバーツラフ・マルホウル監督が11年の歳月をかけて映像化したチェコ・スロバキア・ウクライナ合作。
末が恐ろしい新人俳優ペトル・コラールが主演を鬼気迫る演技で務め、ステラン・スカルスガルド、ハーベイ・カイテルらベテラン俳優陣が脇を固める。
また、優しきロシアの凄腕スナイパー、ミートカを演じるのは、『プライベート・ライアン』(1998年)で同じく凄腕のアメリカ人スナイパーを演じたバリー・ペッパーでした。

東欧のどこか。
ホロコーストを逃れて疎開した少年は、預かり先である1人暮らしの叔母が病死して行き場を失い、たった1人で旅に出ることに。
行く先々で彼を異物とみなす人間たちからひどい仕打ちを受けながらも、なんとか生き延びようと必死でもがき続けるが。。。

余談から始めます。
1960年代、今作品の原作者で作家のイエジー・コシンスキー自身、第二次世界大戦中に受けたとされる残虐な体験を本にした。
その全てが一人の身に起きてるなら最悪な少年期やし、見方変えたらジョン・マクレーン刑事並みの強運と云えるが。
この一連の苦難はマンハッタンの文壇で有名になっていたそうで、6歳で両親に捨てられ、一人で田舎を放浪し、レイプ、殺人、近親相姦を目撃し、常に命の危険を感じていたと云う。
コシンスキーはそれらの話を処女作『The Painted Bird.』(1965年)にまとめ、一時はホロコースト文学の代表作とされた。
コシンスキーの自伝的主張は、後に、彼と彼の両親は皆、宗教的なポーランド人に保護され、ナチスに引き渡されることはなかったことが明らかになり、否定はされてはいる。
また、自伝小説だと本人の口からも語られていた本作がほぼ創作であるとされ、イェジー・コシンスキは非難の的となってしまった。
その後、ゴーストライター疑惑など、様々な嫌疑がかけられるなか、彼は自死を選んだ壮絶な人生はかわりない。
今作品は、めちゃくちゃ評価の難しく、割れる作品だと思います。
一方、映画的な観点から見ると、個人的には近年見た中で注目すべき出来栄えであり、素人目には非の打ち所のない技術的なものやと感じます。
映画の物語やメッセージに役立つ多くの興味深い革新的なものであるかな。
ホロコーストちゅう、歴史的にも人間的にも尽きないテーマを扱った映画であり、より正確には、その恐ろしい時代における子供の運命を描いた映画と云える。
それ故に、残虐な行為を直視して、物語を最後まで共に歩めたなら、多くの視聴者はきっと感情的に憐れみの念をもつに違いない物語だと思います。
しかし、構造の問題が現れているのは否めない。画面を覆う少年にふりかかる災禍と恐怖は、スクリーン上の子供の運命となると、想像を絶する故に、視聴者の避けられない感受性とほとんど共存し得ない。
今作品は、戦争の残酷さによって親から引き離され、最も恐ろしい拷問や虐待の目撃者となり、しばしば被害者となった少年の運命の物語。
多くの大人たちは残酷であるか無関心である。
その意味において戦争で荒廃した非人間的なヨーロッパへの告発であると云える。
余談ながら、ホロコーストの専門家であるクリストファー・R・ブラウニングてのが、記名性に依拠した暴力を容認する心理反応についてこう記している。
『特に問題となる行動が他者に危害を加えることを伴う場合、加害者は犠牲者を罰するに値するものだと理解しがちであるーーこの心理的反応は公正世界現象〔公正世界仮説ともいう。
人間の行動は本来善に向かう傾向があり、何であれ罰を受ける人にはそれなりの悪があるはずだと考える認知的偏見〕として知られている。
この心理的反応はさらに、加害行為における残忍さと野蛮さ、さらに犠牲者の非人間化・価値剥奪のエスカレーションという悪循環を生み出す。〔偏見による〕誤解という基本的属性を通じて、人びとは自分の行動が他者に与える打撃を無視しがちになり、さらに侮蔑され悲惨な犠牲者の状態は彼らに固有の劣性、あるいは下位にある人間の証拠であるとされてしまう。』
『普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊』より抜粋しました。
今作品の周りには複雑な歴史があり、それが全体の構造を複雑にし、評価することをさらに難しくしていると云えるかな。
また、映画的価値とメッセージとして、見るのが難しいけど、無視することはできない。
主人公のヨスカは、思春期にさしかかった10〜11歳くらいかな、ユダヤ人の少年で、強制送還から救うために遠方に住む叔母のもとに避難している。 
叔母は急死し、少年は戦争で荒廃した中欧を一人で旅することになる。
まるで、無慈悲版の母をたずねて三千里やん。
途中、戦争で心に傷を負い、困窮したさまざまな人々に出会う。
少年を助けてくれる人はほとんどおらず、ほとんどの人が少年を搾取し、殴り、辱める。
暴力、奴隷、拷問、レイプ、性的倒錯など、少年が目撃する恐怖と試練は極限に達しているが壊れそうで壊れない少年の魂は強靭としか云えない。
土に頭だけだし、埋められる少年にカラスが襲うシーンはどないして撮ったんやろか。
また、イカれた女性と性交渉を試みる(少年へのレイプ)も描写がリアルで、実生活でトラウマになってないことを祈るほど悲惨。
ただ、救いの手を差しのべる数少ない人たち、神父や兵士など神かと錯覚すらするほど輝いて見えたかな。
今作品には、人間の残虐行為のほとんどすべてのレパートリーが登場する。
故に、原作者が見聞きした被害者たちの経験の『抜粋集』として見た方がよりリアリティーがあるんかな。
兎に角、こないな状況下で、少年は人間性、善悪の感覚、命の価値、そしてアイデンティティを失う危険にさらされているのは云うまでもない。
強烈で大規模な個々のトラウマの後、彼が回復して普通の生活に戻ることはまだ可能なんかなぁ。
将来大人になりハンニバルのレクターのようにシリアルキラー&カニバリズム愛好家など、ソシオパスとなったとて、三分の理はある。
楕円形のように美しいラストは、この問いを未解決のままにしているかな。
バーツラフ・マルホウル監督が描くヨーロッパは、映画の中の物語を第二次世界大戦末期の1944年から1945年に位置づけることを可能にする十分な歴史的ヒントを含んでいる。
しかし、同時に多くのシーンやと、中世から現代までヨーロッパが戦争で引き裂かれたどの時代にも属することができる田舎の舞台で起こる。
地理的な扱いも似ているかな。
おそらく、今作品のプロデューサーは、映画の中で村人たちが使う、中央ヨーロッパで使われているチェコ語、スロバキア語、ポーランド語の混成言語を作り出し、正確な場所を特定しないように努力してる。
また、映画の画面は、モノクロでありながら、というよりモノクロを選択したが故に、絵画を見ているような、あるいは写真展の写真を見ているかのように美しく静謐でした。
残酷な暴力場面が続くのに、自然はあくまで静かで美しいのは諸行無常さえよく見える。
何より巧みなんは、今作品が伝えたいと思うこと、単にストーリーだけでなく、表したいことをもっとも的確な表現方法を選ぶことに徹底しているとこ。
敢えてフィルムを使う、敢えてモノクロ表現にする、音楽もナレーションもない、そのことで、鳥のさえずりや動物の吠え声、あるいは森の木々が風にそよぐ音など、その場の音に包まれることになる。
少年の成長と変化をそのまま映画の展開に活かしたという撮影の順取り。
川の流れの速さに合わせたという編集。
今作品を表すために選ばれた表現方法、手法が徹底して的確なのに、素人目でさえ驚かせる。
また、今作品の重荷は、子役のペトル・コラールにある。
彼は作中で、一言もしゃべらない。
が、しかし、その目は外の恐怖と内なる苦しみを目撃している。
この少年のように目で語れる俳優が日本にはどれ程いるやろか。
他のキャストも一貫して、写実性と自然さを備えた非常によくできたポートレートのシリーズのようで、ほとんどが知らないチェコの俳優が演じている。
皆、見事に融合されているし巧み。
今作品は9エピソードで構成されており、それぞれのエピソードにはヨスカが道中で出会う人または非人間的な人々の名前が記されている。
9つのエピソードに登場するイカれてる人たちの醜悪さを、カトリック的な視点でみるなら 
傲慢、嫉妬、憤怒、強欲、怠惰、暴食、色欲の7つの大罪を暗に含んでることが多かった。
コシンスキーの小説は、暴力やセックスの過激なシーンの積み重ねによって、現在この映画が巻き起こしているのと同様の論争を引き起こしたそうやけど、当初は自伝的物語として紹介・宣伝されたものが、むしろ幼少期にホロコーストを体験した複数の生存者の証言からバラバラに集められた物語の統合であると判明したからでもある。
直接の目撃者がほとんど存在せず、否定派の声がますます大きくなっている世界やと、本や今作品のようなフィクションであっても、信憑性がなければならないのやろうなぁ。
個人的には、極端な描写が問題なのではなく、それらが一冊の伝記に集約されていることが問題なのだと思える。
信憑性の欠如は、見る者の感情移入を害することにもなる。
今作品で導入された時間的・地理的な一般化は、この問題を部分的にしか解決していないと思う。
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