このレビューはネタバレを含みます
1952年制作、黒澤明監督によるヒューマンドラマの傑作である。
大昔、若い頃に観たことがあるが、あまりにも陰気で切なすぎる内容に辟易とした覚えがあり、その後遠ざかっていた。
しかし経年と共に深い人生哲学的なものを感じ、いつしか重厚で深淵な人間ドラマであることを痛感し自分の中で変質していった作品である。
尤も黒澤の持ち味はダイナミックな活劇に顕れるが、その中にヒューマニズムというスパイスの効かせ方が絶妙に上手い。
批評の中に「静」の傑作がこの「生きる」で、「動」の傑作が「七人の侍」というのがあるが確かに言い得て妙である。
この物語は全体のトーンは暗いものの、人間が死と直面した時の絶望とその中から光明を見つけ人間回帰していく様を描いていて秀逸である。
特に舞台を公僕にセッティングしたことが、そのことが上手くデフォルメされて面白い。
この作品を公務員の方がご覧になると一抹の違和感を覚えるはずである。
・役所では何もしない事が身を守る
ことにつながる
・休みを取ると自分の存在感の無さ
が露呈するので取らない
・ただ、出社して判子を押して時間
がくれば帰る生活
・何も生産していないので仕事に
努力、工夫が無い
・前例が無いことはやらない。
・今までと変わった、イレギュラー
な事をやると大変になるので手を
つけない。
・セクショナリズムが激しく、自己
防衛の為、たらい回しが横行する
といった所謂お役所仕事の生業がこの作品からは溢れていて、官僚主義への批判著しいが民間でも大企業になればなるほどこうした傾向は多かれ少なかれあるもので少し気の毒なくらいである。
市役所の市民課長を務める主人公渡辺勘治(志村喬)がかつての情熱を失って、くる日もくる日も書類に判子を押すだけの毎日となり時間がくれば帰るだけの日々を送っていた。
それでも彼は忙しくてしょうがないと感じている。彼は毎日書類に判子を押して、それを綴じ込んでいるだけなのである。
冒頭陳情者の一群から蚊のわくぬかるみ地を公園にしてくれないかとの陳情を受け付ける。
画面には「市民の皆様のご要望を何でも受け付ける窓口です」と書かれたご案内が受付に貼られているのが映し出されている。
受け付けた職員は表情を変えるでも無く、市民課長渡辺に注進、課長は顔を上げるでも無く、「土木課」とだけ言い放つ。
ここからのお役所の得意芸たるたらい回し描写は凄まじい。
「市民課」→「土木課」→「公園課」→「保健課」→「衛生課」→「環境衛生係」→「予防課」→「防疫係」→「虫疫係」→「下水課」→「道路課」→「都市計画課」→「区画整理課」→「消防署」→「教育課」→「児童福祉係」→「地区市会議員」→「助役」→「市民課」
そして最初の市民課職員に戻るが、彼はむべもなく「その話でしたら土木課へどうぞ」と顔もあげもしない。
ここで陳情者達(菅井きん他)はブチ切れるのである。
このシークエンスは抱腹絶倒の喜劇である。
そんなある日、渡辺は胃癌を患っていることが判明する。
映画冒頭に胃癌の兆候を示すレントゲン写真が現れるが、この時点では、本人はまだ気づいていない。
ナレーションは言う。
「この男は時間を潰しているだけである。彼がこれでいいのだろうかと考え、生きている意味を感じ取るには、この男の胃がもっと悪くなり、もっと多くの無駄な時間が積み上げられる必要がある」
と、
渡辺はそれから間もなく病院を訪れる。
待合室にいた男との雑談でこんな症状が出てきたら、まず胃癌で余命いくばくも無いという話を聞かされるが、その症状がいちいちピタリと一致している事が顔の表情だけで表現される。
そしてその男は医者から「軽い胃潰瘍で刺激の無いものなら好きなものを食べても差し支えない」などと告げられたらまず余命数ヶ月とみていいなどと言う。
はたして診察後の医者の診断はそのものズバリであった。
この時の医者達や看護師の顔にも本当の事を告げていない後ろめたさ感が漂う。
かくして渡辺は自分が胃癌に罹っているとの確信を持つ。
突然訪れた死への恐怖から渡辺は悲嘆に暮れ、街を彷徨ったりする。
気持ちが落ち込み物思いに耽って歩く間、街の喧騒音がカットされ、いきなりトラックの轟音が響き渡り我に帰るシーンは心理描写としてよく効いている。
この手法はスピルバーグの「プライベート・ライアン」に於けるオマハビーチでトムハンクスが我に帰るシークエンスに引用されている。
渡辺はそれまでしたことのない無断欠勤をして町の酒場にやり切れない気持ちを吐き出しに出掛ける。
そこで知り合った小説家(伊藤雄之助)は事情を理解し、渡辺を街の遊興街に連れ出す。
だが、満たされない渡辺は帰宅しても父親の放蕩に冷たく対応してくる息子夫婦(金子信雄)にやり切れない気持ちでいた。
暗い部屋の隅で慟哭する渡辺は息子夫婦の遺産相続のいやらしいやり取りを聞かされることになる。
渡辺は早く亡くした妻の葬儀の霊柩車が道を曲がって見えなくなった時の息子光男の「速く、速く!お母ちゃんが行っちゃうよ!」という姿を回想する。
この場面はコッポラ監督が印象に残るシーンとしてあげている。
この他、光男の野球少年時代や盲腸で入院する日のこと、出征する日のことなどが走馬灯の様に渡辺の脳裏をよぎる。
しかし、今の光男は嫁共々冷たい対応であった。
そんなある日、部下の小田切とよ(小田切みき)と街で偶然に出会う。
彼女は市役所を辞め、町の玩具工場で働くつもりでいたのを知る。
彼女の若く溌剌とした生命力に触れ、食事をしたり共に過ごす時間を持つことによって若い娘の溢れんばかりの輝きに惹かれていく。
彼女が造っている玩具を前に「あなたも何か造ってみたら」という一言にふと我に帰った様にやるべき道筋が開ける。
この渡辺のある種の人間回帰・再生を誕生日の女の子が皆の歓声に迎えられる場に居合わせたことに重なって描かれる。
それから5ヶ月、渡辺は亡くなった。
中盤で早くも主人公が死ぬという意外性もあるが、ここからの通夜の席上での参列者の回想を交えての想い出語りという構造がいい。
渡辺が如何にして公園を造りあげていったかが、参列者の同僚や陳情者、見回りの巡査などから語られていく。
一念発起した渡辺が職場に復帰してからは陳情をしばしば受けていた町の公園建設に取り憑かれたように邁進していく。
予算付けの為の各部署への根回しを行なうも陳情者をたらい回しにしてきた各部署の責任者からは怪訝な顔をされたり、ヤクザの妨害に遭ったりするもめげる事なく、粘り強く、自分には時間が無いと悟った者の凄みに皆が圧倒され始める。
頭が固く融通の効かない助役をはじめ同僚達は彼の病気について知る由もなく、何故そこまで彼が拘るのか不思議でならなかった。
その彼らも陳情者達が焼香を上げさせてくれと涙ながらに手を合わせると助役や幹部達はバツが悪くなり退散する始末。
同僚達からは渡辺のひたむきで誠実さを持った執務姿勢に感銘の声がしきりと上がり、自分達もこれに続けと大いに盛り上がる。
最後に焼香に訪れたのは町の巡査であった。
彼はあの雪の夜の公園で渡辺を見た最後の人間であった。
巡査が呟く。
「あれは昨晩の11時頃でした
か、雪の降る公園のブラン
コで一人揺られながら、実
にしみじみと歌を歌ってお
られたのを見ました。何と
いうか、それは実に心に沁
み入る声で何か楽しそうに
も見えました。
その晩、そこでお亡くなり
になられた事を知り私の職
務怠慢をお詫びするしかあ
りません。誠に申し訳あり
ませんでした」
と、
回想場面での渡辺の深々と雪が降る中ジャングルジムの一画を通して「ゴンドラの唄」を朴訥と唄う姿は胸に迫るものがある。
「命短し恋せよ乙女‥」
雪の降る夜のその公園で渡辺はブランコに座ったまま死を迎えたのであった。
恐ろしいのは翌日の市民課に於ける仕事模様である。
全員何事も無かった様に淡々と机に向かうが、下水の水が溢れているのを何とかして欲しいという陳情に対して、それまで係長であった大野(藤原釜足)が新市民課長の席に座っていて注進を受けると間髪を入れずに「土木課」と言い放つ。
何も変わっていないのである。このリアリズムには圧倒される。
一念発起した渡辺課長の最後の生き様に触発された部下達がそれからは見違える様な仕事振りに変貌し、素晴らしい役所に変革させていったというありがちな夢物語の成功譚ではなく、残念ながら恐ろしいほどのリアリズムである。
それでもラストに渡辺の造った公園で子供達がはしゃいでいる空が綺麗な夕焼けに染まっているのを観て少しホッとした感があった。
白黒なのに夕焼けを感じられるのである。
役所の複雑で無駄な機構とその縦割りが醸し出すセクショナリズムを舞台装置にして、生きる意味や仕事のあり様を淡々と描きつつ、老いるとはどういうことなのか、家族とはどういう存在なのかを普遍性を以て静かに訴えていて名作の名に相応しい作品であり、正に静なるヒューマンドラマの金字塔と言える。