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パラサイト 半地下の家族のhorahukiのレビュー・感想・評価

パラサイト 半地下の家族(2019年製作の映画)
4.2
存在しない希望に踊らされる人々

「半地下」という概念を加えることにより、更に明確に社会構造自体への批判を強めた本作。格差社会への批判は監督の過去作からの一貫したテーマだけど、『スノーピアサー』で取り入れた社会的なシステム内とシステム外の対比のイメージを「半地下」という存在によって切り口・方向性を変え、より痛烈に訴えかけている。

それはシステムの中にいることの絶望的なまでの「不幸」を感じさせるだけではなく、「システムから外れた者は人間ではない」というシステムの外にいる者たちの「人としての尊厳」の剥奪までも意味するもの。中も不幸なら外はもっと不幸。外にも中にも逃げ場がないのだという社会の閉塞感に息が詰まりそうになる。

それでもやっていることは『スノーピアサー』と同じ。中も外もダメならシステム自体がダメだよね?永久機関だと思ってたシステムは決して永久機関なのではなく、あの列車のように既にガタが来てしまってるんだという、第三の選択肢に目を向ける必要性が浮かび上がってくる。その選択肢とは何かということは『スノーピアサー』と同じで提示はされないんだけど、その「提示されない」ということ自体が答えなわけだから、結局は息苦しさが増していくだけ。

雨という「負」はシステムの上を通り過ぎて下にだけ流れていく。システムの外には直接的には流れてこないわけだけど、雨が流れてくる位置(下)にいなければ上へと上がる階段自体が消えてしまうわけで、その存在しているのかどうかすら定かではない(恐らく存在していない)希望に縋りついて生きていくことが幸せなのかどうか。でも縋り付かなければ絶対に生きていくことなんてできないのだし、「存在しない希望」を糧にして人生の全てを消費するしかないのだという、これ以上にない絶望に(いつも通り)ズーン…ってなった。

そして下層の人たちにその「存在しない希望」というマヤカシに縋り付かせることで下層に縛りつけ続け、所属する階層に応じた「役割」を永遠に全うさせるということも、現状のシステムによりうまみを得ている人々によるシステム管理の一環なわけだから、本作のファーストカットとラストカットの対比は希望を抱かせるように見えて、その実、システムに縛りつけられる(=システム管理者の思惑通り)という絶望を植え付けられる。

上から下には簡単に転落するけど、下から上には自力では上がれない。その階層の分断には個人の能力なんてものは関係なく、どれだけ有能だったとしてもその能力を活かす場なんてものはそもそも与えられず、能力なんてものを度外視した「人脈・繋がり」とかいう訳のわからんモノが支配する。そこには監督の過去作からずっと描かれてきた主観と客観のズレが現れていて、主観が客観を形作るのだという事実・真実の脆弱性もまた根本的な人として・社会としての問題なのだということを訴えたいのだと感じた。

上が与えてくれた場所を下が席取り争いをするという本作の構図は、下の人々が生きていくためにゴキブリのような存在になり、貪欲にかつ狡猾に他者を蹴落とし這い上がろうとすることを強要する。その壁を決して消えない・染み付いた「臭い」として表現した本作のセンス(『海にかかる霧』でも近いものはあったけど)はズバリ的を射たものだと思うし、単純にすげぇなってなった。

写真や台湾カステラ、ジャージャー麺等のアイテムや集うことと離散することの対比、上から差し込む強烈な光、雨のイメージ、インディアン等によって人物造形やバックボーン、それぞれにとっての常識の差について理解を深めるための情報をさり気なく散りばめ(インディアンについては、子どもに担わせ、大人が危機感を抜き取ってしまっていること、そしてエピローグであの家はどうなったか…というところから導き出される韓国の未来への暗喩・警鐘かな)、階段を画面内に配置した上での左右の人物の動き、それぞれの窓から見える景色等、象徴的で印象的なシーンも非常に多く、物凄く緻密に画面構成が練られてるのだと感じた。評判通り面白かった!
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