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フォードvsフェラーリの湯呑のレビュー・感想・評価

フォードvsフェラーリ(2019年製作の映画)
4.7
タイトルに偽りありというか、『フォードVSフェラーリ』というタイトルの割に、フェラーリ側についてはほとんど描かれていない。60年代後半に名車フォードGT40によってル・マン4連覇を成し遂げたフォードの苦難と栄光の道のりが本作の主題である。
映画の序盤、破産寸前のフェラーリ社を買収しようとフォード社の重役がイタリア本社を訪れるシークエンスで、レーシングカーの組み立てを全て手作業で行うフェラーリ社の製造工程が紹介される。それは冒頭場面の舞台となるフォード社の製造工場の様子とは実に対照的だ。長年受け継がれてきた美学と職人気質のこだわりによって、1台1台に愛情を込めて車を完成させていくフェラーリ社と、徹底した管理体制によってオートメーションの大量生産に特化したフォード社。本来であれば、映画の主役としては前者の方が見栄えもするし、買収交渉が不調に終わった際、フェラーリ社の会長であるエンツィオは、フォード社の車を「醜い」と嘲笑さえするのだ。
確かに、優美な曲線で構成されたフェラーリ社のレーシングカーに比べ、フォードGT40のフォルムはいかにも泥臭い。そしてドライバーであるケン・マイルズもそのエゴイスティックな性格が災いして、スポンサーからも嫌われ職にあぶれていた不器用な男である。だからこの映画は、無骨な男たちが勝ち目の無い戦いに挑む、サム・ペキンパーの西部劇の様に見えてくる。
基本的にレース映画はアクション映画の系譜に属するので、これまでもジョン・フランケンハイマーやレニー・ハーリン、ロン・ハワードといったアクション映画を得意とする監督の手によって数多くの作品が撮られてきた。その意味で、『ナイト&デイ』や『3時10分、決断のとき』のジェームズ・マンゴールドを起用したのは正しい判断だと言える。本来は監督にブライアン・シンガーが予定されていたらしいが、まあ色々あったので仕方がない。それにしてもブライアン・シンガーは自分が降りた作品に限って高い評価を受けているので心中穏やかではないだろう。
そういう訳で、153分という上映時間の長さも含め、本作は徹頭徹尾、反時代的な映画として作られている。腕は一流だが傲慢で喧嘩っ早いドライバー、権力を振りかざし高圧的な要求を繰り返すスポンサー、その間で板挟みにあうカー・デザイナー、そしてイタリアからやって来た嫌味なライバル。梶原一騎の原作かと思うぐらい、『フォードVSフェラーリ』は、男たちの、男たちによる、男たちの為のスポ根ドラマに仕上がっているのだ。カトリーナ・バルフ演じるケンの妻、モリー・マイルズが本作唯一の女性キャラクターと言えるだろうが、その立ち位置は戦う男たちを叱咤し、奮い立たせる『あしたのジョー』の白木葉子と同じであり(『ロッキー』のエイドリアンでもいいのだが)、最終的には勝負の行く末を外から見守る事しかできない存在である。とかく世情に目配せする事を義務付けられた(しかし、誰がそんなものを義務付けたというのか?)現在のアメリカ映画の中で、本作の潔い割り切りっぷりには驚かされた。
『フォードVSフェラーリ』がここまで古典的な佇まいを貫徹し得たのは、結局この映画の主人公は車なのだ、という認識が作り手の中で共有されていたからだろう。レース場面で観客を楽しませる事ができれば映画は成立する、と言わんばかりに、本作のレースシーンは圧倒的な迫力と臨場感を有している。エンジン音やタイヤのスリップ音などサウンド面での貢献も大きく、この周到なこだわりぶりは、製作総指揮にあたったマイケル・マンの恩恵にあずかる部分も多いのではないか。3D上映を前提としながら、意外にバリエーション豊かな構図が用意されているのも好ましい。観る前の「どうせ『グランツーリスモ』のコクピットビューみたいな場面が延々と続くんだろ」という思い込みはいい意味で裏切られた。
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