すがり

ザ・ピーナッツバター・ファルコンのすがりのネタバレレビュー・内容・結末

1.2

このレビューはネタバレを含みます

無味無臭。
いや創作物に対してなら無味乾燥というべきだろうか。

久々にシャイアラブーフが見たかったですし、あらすじ的には無難に楽しめるロードムービーかと思っていたんです。
それなのに、これほどに自分の中をただ横切っていくだけの道のりになるとは考えていませんでした。

窮屈な施設に半ば幽閉されるようにして生活させられていた男が相部屋のおじさんの力を借りてうまいこと脱出、その道すがら出会った男性とフロリダを目指す。
良いじゃありませんか。字面にはカッコーの巣の上で的な雰囲気すらあるように思います。

それが蓋を開けてみれば毒にも薬にもなりはしないのだから創作の難しさは計り知れません。

上映中はただひたすらに違和感に苛まれていたのですが、終わってみて、ここに書くにあたり反芻してみて、何となくその違和感の正体が分かったような気もするんですね。
詰まるところ登場人物たちを好きになれなくて、ひいてはこの映画世界が嫌なんでしょうね。

今作のメイン主人公のザックですが、ダウン症ということを押し出して出てくるのですけど、その必要があるのかということなんです。
やってること自体は幼な子でも成立するんです。

冒頭からして既に施設の中ですし、肉体的にも既に成長している状態から始まるので、こちらとしても始めダウン症というのはひとつの謎なんですよね。それが後々の、でも早い段階でまあ、発覚するわけですが、めちゃくちゃ自覚…というか知ってるんですねザックは。
ここでまず強烈に違和感があったんです。
だって、消えるんですよ。
訳もわからないまま施設の中で老人たちとともに介護されるような生活を強いられていて、その理不尽の中にあっても自由な心は失わずに自分の夢や可能性を追いかける。
っていうベタベタな、だけどごくストレートに胸を打つひとつの王道、無難が消えてしまうんです。

その過程において、ダウン症であることを知らされて、施設に居た理由も理解して、打ちひしがれてしまう。それでもなお立ち上がる、戦う、結果がどうあれ自分を貫き通す。
塩ポップコーンにかけるバター並みにベタベタですけど、この地を這うほどのベタが往々にして強いのは間違いありません。
しかもこの場合は別にダウン症じゃなくたって良いわけで、つまり主人公に対して何らかの障壁があればということなんです。
そこに立ち向かう姿に私を含めたおおよその観客は胸を震わせ、己を省みて、自らの持つ障壁と顔を突き合わせて戦うだけの力、勇気をもらうわけです。
こんなにすんなりできる感情移入経路、自己投影もなかなかありません。

それをね、一切合切捨て置いたわけですよ。
この時点で自分が最初に求めていた無難からは軽く逸脱するので、おそらくそれも違和感だったんでしょうね。
でも、そうであるならばそれと同時に自分の中に期待も生まれてきていたわけです。
それはそうでしょう。たとえ一要素に過ぎないとしてもそういう無難からの逸脱なくして傑作は生まれないのですから。

しかし、残念ながらその逸脱が開けることになった新たな蓋もまた、ただ開くだけの空虚な蓋でした。
始め、タイラーとザックが出会ってダウン症の話が出た時の違和感はついぞ拭えぬまま最後まで走ってしまいました。
その必要性、理由付け、映画という創作であるからには何かあればと思ったのですが、いよいようかがう事はできませんでした。
そういう意味では無難からの逸脱はしていたのかもしれません。最後までも何の障壁も現れなかったのですから。

物語だけはどんどん進行していって、時間が過ぎていって、あれこれもう少しで終わるんじゃないの……?という感覚に陥って、やっぱり何にも起こらないまま終わってしまいました。
ザックを包む世界が温かすぎる。そう言えば聞こえは良いのかもしれません。
でもこれは温かいというよりは都合が良すぎる。文字通り世界が彼を中心にして、彼のために動いている。
施設の追手に関してだって、あれほど早く捕まえろと言っていたわりにエレノアしか追いかけてこないし、何の衝突も解決もないままエレノアもザックに加担する方に傾いてしまったし。

タイラーについては、兄弟を失った自責の念と行き詰まる現状、自分の転機に現れた一応でも夢を追うはぐれ者と出会ったという感覚だろうから、自分の隙間を埋める意味でも一緒に居るという選択は分からないでもないけれど、それにしたっていくらなんでもザックに対して聖人すぎる。
直前に漁の盗みをやり、その報復に対する報復でばっちり放火するやつだぞ。
そういう粗悪粗暴な人間であるということをお知らせしてきたにも関わらず、ザックと出会ったということだけでいきなり激熱な精神を語られても片腹の痛みが猪口才である。

このそれぞれの抱える欠点のような隙間に相手が入り込むという今作の構造それ自体は、自身には経験がないとしても、嫌いじゃなくて。
でもその構造にしたって自分と相手でぶつかったり擦れたり、時間がかかりながら、ぎちぎちしながら埋まっていくものであってほしくて、だってお互いそれぞれそこに至るまでの時間を過ごしてきているわけで。
今作のその、あまりのピタゴラスイッチ感がどうしても好きになれない。
監督が意図してこの感覚を作り出しているのだとしたら、監督には監督で何か、温かいものを作り出してやろうという邪な思いがあるのではないかと勘ぐってしまう。私は捻くれているので本当はそもそも温かいものが苦手なのかもしれないけどさ……。

ただプロレスのくだりのクリントはまだもうちょっと分かる相手だった。
彼も多分現役はヒールとしてやってたんだろうかと思ってしまって、それであのひっそりとした現状だったわけだから、どんな形であれヒーローとして自分を訪ねてきてくれた相手には多少強引にでも心を許して、何か力になってあげたいとなっても理解できる。
ザックにしろタイラーにしろ、ある程度の背景が描写された人物だと現在との印象の乖離に強い違和感を覚えていたところ、そういう背景が希薄だったおかげでこちらが勝手に想像できたからこそだろうね。

でもね。このプロレスのくだりはクリントの流れからして悪くなく進行して、物語的にも間違いなくクライマックスの大舞台になるはずの場所なのだけれど、ここに至って私は絶望することになりました。

今となってはこの映画の一番のハイライトってやっぱり、冒頭の施設の中にいる相部屋のおじさんだと思っていて。
あのおじさんが脱出経路も作ってくれて脱出の手段も教えてくれて、鼓舞する言葉すらかけてくれる。一種の将なわけですよ。
このおじさんが、名前忘れてて申し訳ないんですが、このおじさんが今作最高のセリフ「友達は自分で選べる家族だ」って言うんです。
間違いなくこの映画のピークです。
親の愛を知らない、知らないどころか捨てられたことを知っているザック。言葉そのものの良さもありますが、彼にこの言葉をかけること、かけることができること、これにはとても意味がある。今作で本当に心温かだったかもしれないのはこのおじさんだけです。

その言葉を受けて、ザックも友達であること、家族であることの証として誕生日パーティに呼ぶことを約束します。
このパーティというのも印象づけたかった言葉だったようで、この後も度々登場します。

さて、私が勝手に絶望しただけにしては前置きが長くなってしまいましたが、私が絶望した理由というのが他でもなくこの誕生日パーティなのです。
ザックは自分で選ぶことのできた家族をどんどんパーティに呼んでいきます。
タイラーとはそもそも旅の途中で2人のパーティしてますし、この辺りはちょっとだけスイス・アーミー・マンみたいでしたね。

その中で唯一言葉ではっきりとパーティに呼ばないと宣言されてしまった人物がいます。
そう、クリントの呼んできた、プロレスでのザックの対戦相手その人です。名前は忘れました。
彼だけが施設の外で唯一ザックに厳しかった。施設の職員と同じ言葉を持ってザックを表現しているのですから、もしかすると映画的にはそういう繋がりの中でザックが施設という籠から脱却した成長ぶりを、立ち向かう様を描きたかったのかもしれません。

ただ、ザックの世界はあまりにも温か過ぎた。不自然なほどに敵がいなかった。誰もが受け入れてくれた。
彼だけが、名前も忘れたプロレスの彼だけが厳しかったんです。
彼からしたら本来怒るのも無理はありません。現状がどうあれ、クリントと繋がりがあるということはプロレスは好きなのでしょうし、かつて心血を注いだ時期だってあるはずです。彼にも背景が、積み重ねた時間がある。
それが何の因果か素人も素人、身体も小さいとてもプロレスをやるとは思えない相手に付き合ってやれと、しかも加減してやれと。
あろうことか負けてやれとすら言われていたのではと思える描写すらあります。
たまったものじゃありませんよ。どうしてなんですか。彼の苛立ちも分かります。

試合の中でその怒りをザックにぶつけます。
するとね。
ザックが、返すんです。
「お前は誕生日パーティには呼ばないからな!」

私は絶望しました。
ほとんど恐怖すらありました。

この映画は最初に我々観客とひとつの約束をしました。
「友達は自分で選べる家族」
そしてザックはその家族を誕生日パーティに呼ぶのです。

名前も忘れられたプロレスの彼はザックにとって家族では、友達ではないのです。
何故ですか。曲がりなりにもザックのプロレスには付き合っているわけです。
映画的には施設職員と同じ言葉を使ったプロレスの彼に対しての、自分を閉じ込めていた施設に対しての言葉だったのでしょう。
しかし本来なら、ここでザックは考えなくてはいけませんでした。
まったくそんな道理のないのに自分の夢に付き合ってくれているプロレスの彼が、どういう心境でリングの中にいるのかということを。

この映画、この展開でザックにこの言葉を吐かれてしまっては自分で選べる家族という言葉の良い印象は消え始めます。
「友達は自分で選べる家族」
選ぶことができるということは、同時に、選ばないことができます。
ザックがプロレスの彼に投げた言葉によって、この言葉にも暗雲たちこめ、途端に傲慢を感じさせます。

相手を思いやるようで思いやらないザック。我を通し続けるザック、それをただただ受け入れ続ける周囲。
そこに一石を投じる者はパーティに呼ばれない、敵になり得るのではないか。

とても怖いことだと思います。

これを杞憂だと、考えすぎだよと映画が言うなら、あんな中途半端にカットしないでプロレスの決着をしっかりつけて、握手の一つでも見せたら良かったんです。

それをしない。

その後も突如として車でフロリダに入るシーンに移行してしまいます。
描写としてはそれ以前のあらゆる問題を解決せずに放置したままです。

エレノアとタイラーが居ます。この人たちは家族です。

「友達は自分で選べる家族」

この言葉の表面的温かさが、この言葉に対して、この映画に対して皮肉に思えて仕方ありません。

そう、この言葉もこの映画も、一見しては温かなんですよね。
でも実際のところが私には分からなくなってしまい、気持ちも頭も無味乾燥。均すことにしました。
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