湯呑

運び屋の湯呑のレビュー・感想・評価

運び屋(2018年製作の映画)
4.6
運び屋に求められるのはなるべく人目に付かず、速やかに麻薬を所定の場所へ届ける事だろう。しかし、アール・ストーンは麻薬業者の指示を無視して寄り道を繰り返す。車がパンクして困っている家族がいれば修理を手伝い、ポークサンドを食べる為にレストランへふらりと立ち寄る。もともと園芸業者だった男は、手塩にかけたデイリリーを運ぶのも麻薬を運ぶのも同じだと言わんばかりに、調子っ外れのカントリーソングを歌いながらハンドルを握る。監督自身が老齢の運び屋を演じる『運び屋』は、クリント・イーストウッドがこれまで手掛けてきたロードムービーの傑作群、『センチメンタルアドベンチャー』や『パーフェクトワールド』を思い出させる。
ところで、映画が時間芸術である以上、それは常に不可逆的な運命を背負っている。時間を巻き戻すフラッシュバックといった技法は、そもそも非映画的な手法であり、映画は常に過去から現在、現在から未来へと進んでいく。当たり前の話だが、映画の中であっても過ぎ去った時間は決して取り戻す事はできない。本作において、主人公アール・ストーンの半生が律義に時系列に沿って語られているのは、時間の不可逆性がもたらす苦悩を際立たせる為だろう。
ある場所からある場所への移動にも時間が伴う以上、映画的不可逆性は登場人物の移動を制限する。映画の主人公は、物語に沿って次々と活躍の舞台を変えていくものだが、元の場所に「戻る」事はまれである。ロードムービーに限定するなら、旅人は常に目的地へ向かって進む事を強いられ、後戻りする事は禁じられているのだ。その証拠に、たとえ娘の結婚式であろうと決して家に帰らなかった男が、初めて踵を返し「帰還」を自分に許した瞬間、彼の運び屋としての敗北が運命づけられてしまう。男が最後に叫ぶ「有罪」とは、映画の運動原理に逆らった事なのである。
だからこそ、映画の中でアール・ストーンが繰り返す「寄り道=迂回」は、この不可逆的な運命に対する精一杯の反抗であると言えよう。迂回は目的地に向けての動線を複雑にし、辿り着くまでの時間を遅延させる事で豊かさをもたらす。しかし、それでも結局は目的地に向かう運動として回収されてしまうのだ。映画は、果たしてこの呪縛から逃れ得るのだろうか。それは、映画の終わりについての根源的な問いであり、『運び屋』の主人公と同年齢に近づきつつあるクリント・イーストウッドが、未だに映画を撮り続ける理由でもある。
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