YasujiOshiba

ポーラー 狙われた暗殺者のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

ポーラー 狙われた暗殺者(2019年製作の映画)
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ネトフリ。24-31。いいじゃん。これ評判が悪いって書いてあったけど、どうしてなのかね。ぼくは好きだな。だいたいマッツ・ミケルセンの不死身ぶりには説得力があるじゃない。ガタイも良い。もと体操選手。ジェンマと同じ。いい顔してる。

体操選手って、じつは喧嘩っ早いんだよね。死ぬ思い出で空中に飛び出すからアドレナリン出して、パッと行動に出る。そして辛抱強い。失敗しても出来るまで何度でも繰り返す。1日、2日とダメでも、3日目にできれればよい。小さな痛みにも強い。打ち身や皮が剥けるなんてしょっちゅうなのだ。ミケルセンの顔には、喧嘩っ早さと、決断力と、そして忍耐が刻まれている。

映画のテンポもよい。このリズム感好きだわ。監督のジョナス・アカーランド(Hans Uno Jonas Åkerlund, 1965 - )はメタルバンドのドラマーで、大物ミュージシャンのミュージックビデオも手掛けてるという。なるほど、なんか納得。音楽もよい。プログレハウスのDeadmau5 が担当。おもわず調べちゃった。このいうの好き。
https://www.youtube.com/watch?v=Q01vpy6MCEg

話は単純な殺し屋ものだかけど、なかなかどうして風刺の効いたパラブルでもある。だいたい殺し屋家業が株式会社。どんなに優秀でも50歳になれば引退して年金暮らしを強制されるのだけど、会社は年金を払いたくない。どうせならジジイには死んでもらって払うべき金を利益にしちまおうというのだ。

殺しの会社の社長というかボスがよい。役名はブルート。演じるのはイギリスのコメディアンのマット・ルーカス。この人は軽くてよい。悪い奴にはああいう軽さが似合う。今のどこかの国の首相みたいなもので、賢くも鋭くもないのだけれど、その場にいるというだけで権力を握ると、私利私欲のためにそいつを振りまわすクソやろう。

組織のピラミッドが機能するうちはよい。みなが頭を下げて好き勝手できる。気持ち悪い空気でぶのブルート、色っぽくて知的な(キャサリン・ウィニックが依代になった)連絡がかりのヴィヴィアンからは当然のように忌み嫌われている。それでもヴィヴィアンが彼ために動くのは、組織の人間だからだ。

しかし組織はもろい。不動に見えたものは、ある一定の点を超えると一気に崩れてゆく。その描写が良い。ブラック・カイザーのあのトラップによって戦力がガクンと落ちた途端、残りの兵士たちは、一人の男の陰に怯え、総崩れになって逃げ出してゆく。ぼくらは壁の崩壊を見た。独裁者が民衆に袋叩きになる姿を見た。そういうものなのだ。

原作はスペインのヴィクトル・サントスによるコミック『 Polar: Came From the Cold. (ポーラー:寒い国からやってきた)』。そこではどうなっているのか未読だからしらないけれど、この殺し屋会社の名前がダモクレスというのは興味深い。もちろん「ダモクレスの剣」の故事から取られたのだろう。それは王座の上に細い糸で吊るされた剣。王座に座ることは、いつ落ちてくるかもわからない剣の下にいることだというわけだ。なるほど、殺し屋はその剣なのかもしれないね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ダモクレス

それから、ダンカン/マッツ・ミケルセンの雪のコテージの隣人で、心に傷を負うカミーユのエピソードがよい。演じるのはアイドル的なオーラを隠したアイドルのヴァネッサ・ハジェンズ。どうしてオーラを隠しているのか。理由がある。その理由が復讐であることが明らかになるところで銃声。カメラはパッと雪山と湖を映す。コテージの遠景。みごとな演出。そうなんだよね。あれは恩讐の彼方の風景なんだよね。

いやよかったわ。十分に現代的なパラブルとして堪能できました。


原作のコミックはキンドルで読めるみたい:
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B07G6NDSYC?notRedirectToSDP=1&ref_=dbs_mng_calw_1&storeType=ebooks

追記:
ダンカンが小学校でナイフの使い方を教える場面!どこか喜劇的なのだけど、考えてみれば強烈な風刺でもある。ぼくらは、学校で社会に出る教育受けるのだ。よき社会人になるための教育とは、よき兵士になるための教育でもある。いいかえれば、学校で戦い方をおそわり、武器の使い方を学ぶのだ。

ガザを爆撃している国の兵士たちは、そこで死んでゆく子供たちには無関心でいられるように教育されている。あそこにいるのは。ハマスなのだ。ハマスはテロリストなのだ。女も子ども、学校も病院も、すべてはテロリストの潜勢力なのだ。だから、人間ではない。殺して良いかどうか、道徳的に判断する(ディアフォラ)必要はない。テロリストは人ではなく、人としてしてよいかどうか判断の対象ではない(アディアフォラ)。

シノニズムの国でアディアフォラの教育がなされているのだとすれば、ダンカンが行なっているのは、その戯画でなくてなんだというのか。けれども、皮肉なことに、教室で子どもたちに殺しを語るダンカンの表情が生き生きとしている。

一方、そのダンカンに機会を与えたカミーユの表情は暗いままだ。その理由はやがて明らかになる。彼女の表情から生気を奪ったのは、まてしても皮肉なことに、ダンカンを生み出した「アディアフォラの教育」だったのだから。
YasujiOshiba

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