コメディ畑の監督だからこそ成し得た"外し"の恐怖。
今作は、世界一有名なヴィラン「ジョーカー」"誕生の瞬間"にスポットを当てた"新機軸"ストーリーである。
この映画や「バーズ・オブ・プレイ(邦題はハーレイ・クインの華麗なる覚醒というクソダサタイトル)」や、リブート版「スーサイド・スクワッド」の動向を見る限り「ジャレッド・レト」版のジョーカーは無かった事にしようとしてる感が満載の「DC」作品最新作に位置付けられている今作だが「DCEU」(DCエクステンデッドユニバース)とは全くの無関係で、これまでの関連作とは一線を引いた"完全なる独立作"として、オリジナルストーリーで製作されている為、過去作に関する事前情報は返ってノイズになってしまうかもしれない。
なので、劇中には「ゴッサムシティ」や「アーカム州立病院」や、幼少期の「ブルース・ウェイン」が登場するなど「バットマン」の世界を示唆するものがいくつか登場しはするが、今作でそれらについての予備知識は全くもって必要ない作りとなっている。
どこまでも不幸な男「アーサー・フレック」は、精神を病み、尚且つ脳機能の欠損により突発的に"笑ってしまう"持病に悩ませられながらも、コメディアンになる事を夢見てピエロの派遣会社で働き、自宅では寝たきりの母親の面倒も献身的に行いながら懸命に生きていた。
そんなこの映画で最も重要になるのは、実は"コメディ"要素である。
と言っても、劇中で笑える部分はほぼ皆無であり、その"笑えなさ"にこそアーサーの"悲惨さ"を助長する仕掛けがあるのだ。
アーサーは、本気でコメディアンになる事を目指している。
しかし、笑いのツボが"感覚"で理解出来ない為、コメディショーを観覧しに行っても、他の観客とは全く違うタイミングでアーサーの甲高い笑い声だけが響き渡ったり、常に持ち歩くノートに周りが笑ったポイントを書き留めては、それを単なる"情報"としてしか認識する事が出来ないのだ。
また、子供を喜ばせようとおどけてみせるも、逆に気味悪がられたり、その場に似つかわしくない粗相をしでかしたりと、あらゆる行為が全て裏目に出てしまう。
このようにして、アーサーの思い描く笑いが全て裏切られ、社会との感覚の"乖離"を何重にも見せる事により、アーサーの"愚直さ"は不気味さを増し、笑い声は恐怖の対象へと"変貌"を遂げていくようになっている。
この"外し"を応用した恐怖の演出は、コメディ映画を数多く手掛けてきた「トッド・フィリップス」監督だからこそ得ることの出来た着想であり映像表現であったと感じた。
そもそも「ハングオーバー」シリーズでも、ところどころで引いてしまうレベルの"シリアス"なネタを挟んでくるあたり、この監督の感性は元来"サスペンススリラー"向きのセンスも併せ持っているとも考えられるのだ。
そして、腐った街でアーサーの身に幾度も降りかかる災難と、自身も知り得なかった自分と家族についての"秘密"を知る事により、アーサーの感情はみるみる内にグチャグチャに掻き乱されていき、信じていたある一つの幸福でさえも"虚構"であったと気付いた時、病気だと信じていた"笑いの真の正体"を理解し、"それ"はついに誕生する。
そして、"それ"を社会が求め始めた時、アーサーだったものは"最悪の形"でようやくその"存在意義"を見出すのだった。
始まった瞬間から畳み掛ける様にして起こる悲劇の連鎖に、スクリーンを観る目にも力が入りっぱなしで、ここまで終始気が抜けない映画を観たのは久しぶりかも知れない。
また、一切救いの与えられない主人公像というのは相当に悲しすぎるものがあり、なおかつその姿に感情移入してしまっている自分にも悲しくなってくるなど、この映画は負の方向への感情の揺さぶりが半端ない。
だが、半端じゃなく本気だからこそ鑑賞後の余韻もまた凄まじい訳で、アメコミ映画にして2人目のジョーカーがアカデミー賞を獲る快挙を、否が応でも期待してしまうのだ。
それ程までに「ホアキン・フェニックス」の役作りも明白に常軌を逸するものであり「ヒース・レジャー」のようにならなくて本当に良かったと、最後はほっと胸を撫で下ろした。