秋日和

冬時間のパリの秋日和のレビュー・感想・評価

冬時間のパリ(2018年製作の映画)
3.5
原題の『Doubles vies』に対してつけられた英題は『non-fiction』。とある小説の左の頁と右の頁に描かれていた一組の男女の人生が、本を閉じてピタリと重ね合わったような、そんなイメージが頭の中に浮かぶ。
対比せざるを得ない、ギヨーム・カネの講演とヴァンサン・マケーニュのトークショー。そしてそこで描かれる質疑応答。別々の人生を歩む男が、それぞれ異なる命題に耳を傾け、口を開く。そしてその二人は編集者ー作家という立場で、映画の最初から繋がっているのだ。しかも二人とも妻以外に関係を持つ女性がいる。風貌が全く違う彼らには、嫌でも共通項を見つけてしまう。だから観ているこちら側としては、どうしたって『Doubles vies』に絡め取られる。そこを抜きにして、この映画を観るのは難しい。

絡め取られた『Doubles vies』を振り払って、別の個所に注目して映画を観てみる。以前、知り合いが「フランス人は討論(議論)が大好きなんだよね」と呆れた顔をしながら教えてくれたことを覚えていたし、フランス映画を観れば観るほど、確かにそうなんだろうなと思わされるシーンに多く出会うものだけど、この映画も多分に漏れず、議論するシーンが多い。そして議論するシーンは大抵の場合退屈で(テーマ的に興味深いと思える観客は幸運だと思う。隣の席に座っていたオジサマは議論のシーンで度々笑い声を立てていた)、冗長に感じられ、次のシーンが待ち遠しくなってしまう。上手い監督はこれをどう切り抜けるのか。アサイヤスは一つの答えを教えてくれたように思った。
話し合いをするには室内が良い。話相手の中に、一人ないしは二人、喫煙者を紛れ込ませると良い。議論が煮詰まってしまったとき、白熱しすぎたとき、あるいはシーンとして停滞してしまったとき。おもむろに席を立たせて、ドアを開け放って、煙草を吸わせる……これだけで充分。ドアの向こう側に足を踏み入れた瞬間、少しだけ自由になる気がするし、シーン全体の風通しもよくなったように感じた。そんな瞬間に、この映画では何度か遭遇する。ギヨーム・カネでも、ヴァンサン・マケーニュでも見受けられる。やっぱり、『Doubles vies』に絡め取られたままかもしれない。

個人的なところで言うと、アサイヤスの中では『クリーン』と同じ棚に置いておきたい作品。あまり目立たいけど、埃をかぶらないよう定期的に取り出したくなる。「わたしには嘘をついて、本の中で告白する」は悲しいけれど、あまりにも正直な一言。この台詞だって『Doubles vies』にちゃんと含まれていると思う。
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