140字プロレス鶴見辰吾ジラ

海獣の子供の140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

海獣の子供(2018年製作の映画)
4.0
【サピア=ウォーフの仮説】

映像というか彫りの深い作画から生み出されるダイナミズムな絵の重低音により座席に縛り付けられる「映画的重力」をアニメーションにして遺憾なく発揮した作品。少女の成長物語というミニマムな世界観に海という異世界からのガール・ミーツ・ボーイズ、そしてメタファーとして眼前に広がる壮大な生命の物語。とにかく遠くへ連れて行かれ、言語で語るに対しての限度を映像の雄弁さをアニメーションという限界を先へ導くツールとして、惚れ惚れする程美しく描いている。巨大なクジラの登場と、目線が見下ろされる形で魅せる「見る、見られる」関係の畏怖のシークエンスは、衝撃的であり幻想的だった。

本作は少女のひと夏の思い出から、壮大な宇宙=生命体論に基づく壮大な生と死の祝祭の前戯と本番をアニメというファンタジックな媒介からSF映画として、哲学要素で味付けしている点が見ていて面白い。決して難解な哲学映画かと言うと、割とストレートに種子、精子、母体、子宮、妊娠、そして性行為を大きな声でメタファーとしている点は、「2001年宇宙の旅」のスターゲイト的快楽と比較するといささか恥ずかしいものなのだが、アルフォンソ・キュアロンの「ゼロ・グラビティ」的な位置づけだと思うと胸にはしっくり感じられるのではないだろうか?

本作を見て感じたのは、ドゥニ・ビルヌーヴ監督の「メッセージ」におけるサピア=ウォーフの仮説である。言語が知覚する範囲を決めるという事象において、言語外を知覚することができないということは逆説的に、言語外の意味を習得することができれば知覚範囲は広がっていくという構成だったではないだろうか?

序盤に示されるクジラの「ソング」における今までにない表現法で人間サイドが驚くのだが、クジラのソングを理解する側になれば知覚レベルも次の段階に上がるであろう。ヒロインの琉花がジュゴンに育てられた海と空に出会うことで、人間サイドである陸上活動から海の側へと行動が変化し、それに応じて作品は抽象化を進めていく。このフェイズ移行がヒロインを精神的にも物理的にも成長させ、そして劇中に登場する隕石が体内に送り込まれるという受胎のメタファーから、祝祭の本番である壮大な宇宙の構図と生命の誕生が表現されている。ヒロイン自身は劇中で怒りの制御に苦しむ部活動生活から言語化できない焦燥感から解放される形で終盤のカットへと突入する。

拝読している映画ブロガーさんの考察である「海=生命」「陸=死」との解釈を見て、本作は、デイミアン・チャゼルの「ファーストマン」で表現された宇宙=死、地球=生の世界であることに似ていて、逆転構図になっている。

観念的な映像に苛まれるかと思い、やや緊張気味に劇場へ足を運んだが、思ったほど哲学性が強いわけでもなく、宇宙を巨大な生命体として解釈する論の中で、成長を精神面以外でSF的に海サイド、陸上サイドの世界の異なりを繋ぐ者としての海と空の兄弟が担って、巨大なクジラや古代から生きる歪な生命に辿り着かせ、そして宇宙の銀河の破片すら我々を構成する成分と同じ→悩みは宇宙や海や壮大なものに溶け込ませるという割とミニマムにもダイナミズムにも着地する視点があったので、単純なワクワクも感じられた。

作品のメッセージだけ切り出せば、逆に陳腐化してしまうリスクも孕むが、アニメーションの作画力、表現力、彫の深いややアニメとしてのキャラクター美からすると歪な目の印象が本作のレベルを押し上げ、豪雨の中を疾走する自転車、台風の暴風雨の中のタンクローリーと魚の幻想シーンと、度肝を抜かれるような“アニメ”としての快楽を感じられる作品だったことに爽やかな気持ちになれた。